2014年1月16日木曜日

セドナを訪ねる

往復9時間かけて始めてセドナまで行って来た。ラスベガスは一月、二月も暖かいが、それでも夜が明け始める朝方はさすがに寒い。朝早く集合をかけられて冷え切ったバンに乗り込む。もう少し着込んで行けば良かったと思うがそれも最初のうちだけで、明けて日が昇り始め、直接受ける日差しは実に暖かい。単調な直線道路を走りながら、眺める晴れ渡った青い空は気を休めるけれども、ラスベガスの町が途絶えれば、走れども走れども、緑のない平地と禿山が続いていささか気が滅入る。そんな殺風景な景色を見ながら4時間以上も走り続けて、やっと緑が現れてきた。禿山から岩山へと風景は変わり、東西に伸びる大陸横断道40号線から南下して暫くたつ頃には、ごつごつしたその岩山も滑らかな赤レンガ色の大きな岩山に代わってくる。南下したせいなのか、高度を下げたせいなのか、それとも暖かく熱を帯びやすいこの岩山のせいなのか、温度は上昇して初夏の様相を帯びてきた。青い空と赤レンガ色の岩山。写真に見たセドナの光景が広がった。セドナの気運の圏内に包まれた。高台から見るセドナの町は明るかったし、別荘と言える家々が盆地を囲む様々な奇岩の麓に佇んでいた。連れの兄弟はこんなところで余生を送りたいと口にしたし、皆もそれに頷いた。私と同じように、ここまで肉体を酷使して歩んできた疲れが頷きを起こさせている。御父様も立ち寄られたこのパワースポットの地、セドナ。この世のものとも思えない巨大な奇岩が立ち並び、背景のダイレクトな空の青と岩の赤の見事な色彩のコントラスト。非日常の異次元的な世界を見るとなると、ここは確かに霊界の一景色なのかも知れない。パワースポットならではのエネルギーパワーを受け取るのだろうけれども、それは肉体の生命エネルギーなのか、精神的霊的エネルギーなのか、それとも心魂の安らぎを受け取るのか何なのか。観光気分で行くなら、観光気分を超えるものを受け取ることはないのだろう。多くの課題を抱えて生きているけれども、それを越えようとする意志より、それらの事を一瞬でも忘れて楽しみたい観光気分の方が勝っていることは確かだ。それでもこの地を訪れたという事実があり、その事実の内的霊的意味は後から必ず姿を現すはずだ。パワースポットセドナの地。本当のパワーはこの地を離れて、必ずや天と霊界に通じる運勢を与えられたと信じ、それがどういう形で花を咲かせ実を実らすのかを尋ね続け期待し続けるところにあるはずだ。祝福の恩恵が終着点ではなく始点であるように、セドナの地で気運を受けるのは、何かその場で戴くご褒美のような御利益的終着点ではなく、これからの多難な歩みの中で、それらを越え得る力をあの時あの地で受け取ったものだと見出すときに初めて理解し納得するものだろう。御母様にお会いしたからセドナの地を訪ねることができたのか、御母様の願いに応える自分になれるようセドナのパワーを受け取ることになったのか、そんなことを考えながらも兄弟達の談笑に付き合いながら帰路に着いた。



0 件のコメント: