2014年1月29日水曜日

今日の想い 697

良心的な人と良心を認識し良心の願いに応える人とは異なる。堕落人間、祝福によって原罪を無くして戴いたのだからもはや堕落人間ではないというなら、堕落性を抱える人間とすべきなのかも知れないが、人はみ言葉を受け入れようが受け入れまいが良心的な人は山ほどいる。しかしあくまで、、的であって、良心を捉えその願いに応える人とは明らかに異なる。もし良心が人間的な次元に留まるものであれば、御父様が言われた「良心は神様に勝る」という言葉は当て嵌まらなくなる。だからこそ良心革命という言葉が御父様の口から出てくるのであって、人間的良心的なものを御父様の良心と同じに捉えて意気揚々と教会に対して反旗を振りかざす者達の理解の稚拙さ単純さは、サタンの格好の使い走りになり得る。良心的な在り様にもサタンが働くなど、彼らに取っては思いもしないことだろう。エバがルーシェルの誘惑に流されていったのも、それが正しい事のように思えた、いわゆる良心的に思えたからであって、縦的関係を立てる前に横的関係に至ったことが問題で、私達が良心的に思えることであっても、それが縦的な関係性からそう思えるのか、或いは人間的、横的な関係性からそう思えるのかを問うのは、本性か堕落性かを問うと同じように重要だ。エバはルーシェルの誘惑にはまろうとする時、エバの内面の声として縦的な関係性から得られるものに従うべきだった。しかし縦的なものに蓋をして神のように賢くなれるという横的な内面の声に従った。その時点でルーシェルの誘惑は良心的に思えたから応じたということだろう。エバが自由意志をして取った判断だ。あらゆる局面で自分を正当化できる。正当化するとは良心的だと思えなければ正当化はできない。横的なものに流れる良心的に思える自分を中心に立てるのか、縦的なものを立てようとする良心を捉えようとする自分を中心に立てるのか、その違いがわからないのなら思考と感情はサタンに主管されたままだ。み言葉の鞘(さや)だけ受け取って良心の本質に向かいあってはいない。

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