2014年1月16日木曜日

今日の想い 690

御父様と御母様が一緒におられる御前でしか御父母様にお会いしたことはなかったので、御母様だけがおられる御前では戸惑いを隠せなかった。ビデオが終わり御母様がお話を始められても、私は顔を上げることができないまま、うつむいて筆記するに留まっていた。どんなに怒られても御父様には許しがあると思っていて、怒られることも喜びだった。しかしお一人になられた御母様は始終笑みを絶やされず、丁寧にゆっくりと言葉を選ばれて話されながらも、それだからこそ責任使命をはっきりと受け取らなければならない厳しさが空気に滲み出ていて、私はというと呼吸もまともに出来ないでいた。そして緊張感は急速に高まりその場にいることの恐ろしささへ覚えた。私は御父様の子女ではあっても、御母様の懐の中には素直に入れない自分がいることに気付いた。2011年、3年前の同じ頃、やはり同じようにラスベガスの平和宮に私はいた。御父様の怒りの洗礼を受けていた。触れられた中心事項は水産ビジネスの事で、その場でクジ引きさせられて新しい任地を決定され新しい出発が為された。私はその場にいたものの直接的な立場になかったから御父様の指示に対しては客観的だった。そうして今同じ場所に私はいる。御父様の御聖和、そして基元節を経て、以前とは全く異なる状況下でこの場に座っている。そうして今回の私は直接的な使命に立っている。しかし御父様と異なり御母様は直接的な指示を出されない。人事を発表されるでもなく今までの責任を追及されるでもない。主要な責任者から状況の説明を受けられただけで、そして補足的な言葉を伝えられただけで、後は私達に任された。ひとつ念を押されたことは、責任を取るなら実績が必要であることと、そして責任を取る面々を御母様ははっきりと覚えられたこと。今までにない緊張もし、恐ろしさも覚えた私は、もし私が御母様の懐に入って行けるとしたら責任を取る者となり、実績を残す者となることだと察した。そうして逃げることが出来ない追い詰められた自分、御母様という産道を通り抜けるしかない自分であることを理解した。もはややるべきことをやるしかないという、この頭を産道に押し込めなければならないことを理解した。もがいて苦しんでそれでも躊躇して、帝王切開的な無理くり新しい私が取り上げられるのか、自分で産道を見出して、この地上世界に対して主体的主管的な新しい私を産み出すのか、今回の平和宮訪問はその選択を迫られている。

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