2014年1月28日火曜日

選択という自由意志

私は御父様の血統圏に属す者として、選択を正しいものにしたい。それは行動の選択でもあるけれども、行動の原因には私の思考があり私の感情がある。よって私は思考の選択を誤りたくないし、感情の選択を誤りたくない。今の私の理解が正しいかどうかという問いは常に付いて回ることであり、私の感情についても同じことが言える。思考の選択にみ言葉が働く。み言葉が正しく受肉された分だけ思考の選択は正しくなる。感情の選択にも同じようにみ言葉が働く。そしてみ言葉が正しく受肉されているかどうかは更に私の深みに関わる私をして判断する。その深みの私、自我と言える私が神霊と授受することによって活動するのが良心であり、その良心は私達が一般的に認識する良心だとは思わない方がいい。神様はロゴスの神様であられるけれども心情の神様でもあられる。ロゴスの真意を普通受け取れないように、御父様が使われる心情の真意を受け取った者も少ない。私の思考に対して神様のロゴス、私の感情に対して神様の心情と、そのように大まかに捉えてはいるけれども、起きて内外を照らす意識の光は未だロゴスも心情もその片鱗さへも照らし出してはいない。それはまだ無意識の、夜の私の領域にある。しかし、昼の私はそれがあるという確信だけは持っている。持っているけれどもその表皮を剥いて真意に触れることもできないし、扉を見つけてロゴスの核、心情の核に入ることもできないでいる。ロゴスと心情を開く鍵は御父様が持っておられる。実は御父様は既にその鍵を遺言書として私達に差し出して下さった。差し出して下さってはいるけれども、私達は未だに豚に真珠の状態だ。私達は実体の御父様に出会い、居並ぶ私達の前で多くのみ言葉を何度も何度も語って下さった。惜しげもなく何時間も何時間も語って下さった。私達は我先に受け取ろうとしたが、場所取りにせめぎ合うだけの豚の群れだった。御父様は豚の群れに惜しげもなく真珠を差出して下さったけれども、私達が受け取ろうとしたものは真珠ではなく餌にすぎなかったということだ。その情景をイメージして思い浮かべ、その豚の群れの一匹だと自分を認識するなら、霊的事実としてさして違いはないだろう。行動の選択は堕落的である限り非常に狭い。要するに選択の余地がないと思っている。それは思考の選択が地上の次元の枷をはめられて平面的であるし、感情の選択に関してはもはや選択するものではないだろうとさえ思っている。堕落的な思考、堕落的な感情とはそういうものだ。決して戒め的に良からぬ想像、或いは怒りの感情が堕落的だということではない。成功者の話を聞けば、絶望的で危機的な状況、それは何の選択の余地もない状況から、考え方を変え感情態度を選ぶことで大逆転の成功を治めた話はよく耳にするが、そこには象徴的であっても、堕落圏を越えた本然的思考と感情を彼らは選択している。

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