2014年1月24日金曜日
今日の想い 695
エジプト人を打ち殺したモーセ、カナン七族を虐殺したイスラエル民族、回教徒を弾圧したキリスト教徒、それが極悪非道のように見えても彼らは善の立場だ。民の暮らしの場である日本本土を、兵と民の区別どころか男と女子供の区別すら配慮に入れずになされた米の絨毯爆撃、さらに一瞬で広島長崎を地獄と化した原爆投下、それらの悲惨さには目を覆うものがある。私は広島県人でもあるので原爆がどれほど凄惨極まりないものかはわかっているつもりだ。しかしそれでも、ここで言うところの打った側は善の立場であり、打たれた側は悪の立場だ。逃げ惑い、そうして犠牲になる女子供を見ながら、それを善しとされた神様だ。焼けただれ溶けて流れる皮膚を晒し、それでも水を求めてさまよう死の群れを見ながら、それを善しとされた神様だ。神様の胸の内の心情がどうだったかを言っているのではない。胸の内で咎めようがかきむしろうがそのようにしてでも打つことを願われた神様だ。モラル(道徳心)を口にする。良心を口にする。しかし地上の道徳心、良心で量るべきではない天の善悪の判断がある。打つ側に晴らしたい感情があるかどうかは別にして、打たれた側は打った側への恨めしい感情を抱く。しかしここで気付かないといけないことは、犠牲という概念があることだ。立場上の悪で打たれた者は、捨てられたのではなく肉体の犠牲、心魂の犠牲を供えた者達だということだ。地上では情けもなく打ち捨てられたと見えても、霊的には犠牲を供えることで天に取られたという事実が見える。天に取られた存在は天の主管圏であり霊界に於いて引き上げられる。犠牲という概念がなかったら、神様は真の愛の御方ではなく非情の大王であり非情なる趣味で創造されたとしか思えない。道徳観念に照らした善悪判断のみを基底に置くなら、摂理史に見る善悪闘争で神様が為されて来たことは至る所で道徳を無視されており、心情の神様、真の愛の神様という言葉は出てこなくなる。人間的な者であればあるほど、犠牲という意味を問わなければならない。犠牲の概念がわからなければ摂理が前進し、展開すればするほど躓きは多くなる。御父様に躓いてしまえば後はサタンの罠に嵌るしかない。
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