2014年1月8日水曜日

今日の想い 686

復帰摂理時代(旧約時代)と復帰摂理延長時代(新約時代)は、メシヤを迎える為の基盤、象徴献祭(信仰基台)と実体献祭(実体基台)を立てる為の路程であったが、それでは一端メシヤを迎えてしまえば必要のないことなのかというとそういう事ではない。同時性を説明することでメシヤを迎える為の歴史であると原理で証明されることについても、それで御父様がメシヤであると認識できればそれで事足りるという事ではない。御父様に正しく出会い、正しく侍っていると、食口誰もが信じているけれども、それは私達の勝手な思い込みであって、正しく迎えて侍って一つになる為には常に問い続けなければならないし、常に否定し続けなければならない。信仰が或る段階に留まってしまえばそれは信仰ではなくなる。歩めば歩むほどに無知をより深く自覚し、歩めば歩むほどより深いものを壊さなければならないものだ。御父様は勝利されて旅立たれたのであり、後は私達の責任に於いて地上天国を完成させるだけだと、随分大まかに、と言うか勝手に捉えているけれども、摂理歴史を見れば、神とサタンの間で信仰基台と実体基台の条件の奪い合いがどちらも紙一重すら譲らずに為されて来た結果を見るのであり、御父様が勝利されたからと言ってこれからの歩みが単純明快なものとして地上天国が為される訳ではないだろう。複雑怪奇な教会の裏事情は見ず触れずで、私は私の信仰路程をまっしぐらに歩むだけだと、そんな随分かっこよさそうて清々しい気分で歩んでいる者達は、意外とグループ派やその関連で歩んでいる者達の中に多い。悪びれることもなく、何の負債もなくグループ派のものとなった関連会社で働いている。食口の多くは御父様に繋がるみ言葉が差し出されているという認識をした時点で信仰は完結している。先にも言ったように自分の中で完結させてそこに留まるならそれは信仰とは言えない。み言葉を何度も何度も繰り返して読むのもいいけれども、問い続けることを忘れないでほしいし、否定し続けることを忘れないでほしい。それなくしては朝に夕に御題目を唱える何処かの宗教と変わりは無い。仕事も生活も習慣化しているけれども、それに合わせて内的な感情も思考も習慣化してしまい、心情とか精誠とかと言う言葉の存在は知っているし、使ってもいるけれども、実際はその言葉とは関係のない内的霊的位置で安住している。カナンの地に入ったイスラエル民族は、カナン七族を滅ぼさないでそのままにしておいたので、彼らから悪習を習い偶像を崇拝するようになってしまい、その結果、彼らの信仰に大きな混乱を引き起こした。私達は滅ぼすべきカナン七族が周りにいるのではなく、私達の中にいるのであり、私の中にいる。私が私の内面を分別する目を失い、分別力を失うことが、私の中に御父様を迎えてはいないことの証明になる。教会が教会内部を分別する目を失い、分別力を失えば、教会の中に御父様はおられないことになる。複雑怪奇に見える御家庭の事、教会の事のように見えても、その現実の背後に神とサタンの遣り取りがあり、そこを見る目を持たなければ誰が摂理を引っ張っていくのだろうか。食口は本当の意味で御父様を迎えなければならない。問い続け、否定し続けて、真の御父様を真に迎えなければならない。

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