2014年1月9日木曜日
今日の想い 689
原理のみ言葉は、相容れない宗教と科学という課題を統一できる新しい真理だ。歴史はメシヤを迎える為の基台作りとして時を積み重ねてきたが、メシヤは本来統一された基台の上に迎えるのであり、メシヤを迎えて統一するのではない。すなわち統一する為のメシヤではない。個人に於いては心と体が統一されてメシヤを迎えるのであり、メシヤを迎えて統一するのではない。しかし統一できる真理と神霊も地上にはないので御父様はメシヤとして立たれる前段階で原理のみ言葉である新しい真理を差し出された。食口達は自分はメシヤを知って迎えたと思っているけれども、しかし心と体が統一されていないのにメシヤを迎えようがない。確信と思い込みは似て非なるもので、御父様を私を救って下さった御方だという認識が確信なのか、或いは思い込みなのかは天国と地獄の別れ目だ。思い込みで安心しきっている食口は羊族ではなく山羊族だ。あなた達は心と体が闘っていることさへも知らないという御父様の嘆きの言葉は、御父様をメシヤとして迎えるに至っていない私達だという意味だ。事実でもない霊界様相をイメージして、食べるのも困らず面白おかしく暮らす勝手なイメージとしての霊界に明日に死ぬとしても行けると思い込んでいる。そんな御利益的な信仰を望まれる御父様でもないし、そんな自己中心的な霊界でもない。あなた達が今霊界に行ったら間違いなく地獄行きだと忠告される言葉をどう捉えているのだろうか。私達は焦る思いがあって当然だ。何故なら私という個体の心と体も統一されていないし、本当の意味で御父様を迎えてもいない。心と体が闘っている個人を投影する社会も国も統一されてはいないし、実体の天一国の完成も見ていない。御父様は口に太いチューブを突っ込まれて、それを取ろうとしないように手を固定されていたと聞く。イエス様は磔刑を立てて受けられたけれども、御父様は横になって磔刑を受けられたようなものだ。その御聖和の在り様が本当にメシヤとしての御父様の願いだったのだろうか。御聖和の事実と経過と在り様を内観して見て、最後の最後に霊的に眠っている私達を起こそうとされた御父様ではなかったのかと思えてならない。もう少しで天暦2014年が明ける。新年への準備が為されようが為されまいが時は確実に流れ2014年は確実に明ける。私達に託された御父様の願い、私達を救いたいそして全人類を救いたい、その重い想いを受け止めて再出発するのでなければ今までと同じように無駄な時が流れていく。私達は御父様をメシヤとして迎えなければならない。その為には心が主体の位置で体を統一させなければならないし、宗教が主体の位置で科学を統一させなければならない。み言葉理想を掲げて、政治と経済をその理想に合わせてひとつにしなければならない。その中心的主体的位置に立たないのなら祝福家庭は何の為の祝福家庭なのだろうか。
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