2014年1月18日土曜日
今日の想い 691
時々思う、、、。しみじみ思う、、、。生き続けるということの過酷さを思う。天暦新年を迎えようというこの時に吐露するような言葉ではないのかも知れない。確かに、絶対信仰を供えるという意志を持ち続ける決意をした者が口にする言葉ではないだろう。それでもこの地上という、ありとあらゆる戦いが繰り広げられる戦場から、私という存在を消し去りたいと思ってしまう。そういう時の私は孤独な存在だ。この孤独な心情もまた神様が味わうであろう心情のはずだ。私という存在としたけれども、私という存在の中こそ戦場そのものだ。地上という次元の戦場を越える多次元に渡る戦場だ。私が孤独であるように、私という戦いが繰り広げられる心魂の奥で、更に翻弄される孤独な神様だ。私が生き続けることに辟易し、その過酷さに心身が削られ続けるように、神様も真の愛の存在として存在し続けることに辟易し、真の愛を捧げて犠牲になる主体の位置の過酷さに本性相と本形状が削られ続けてきた。ある者にとっての神様は全知全能の神様なのだろう。また、ある者にとっての神様は厳しく恐ろしい神様なのだろう。またある者にとっての神様は慈愛溢れる優しい神様なのだろう。しかし私の神様はそんな側面を見せたことはない。私の神様は寂しく、孤独で、弱みさえも見せられる神様だ。それが神様の本当の姿だとは思わないし神様の心情だとは思わない。神様の心情はそんな側面を見せる更にその奥で湧いている。私が感情の存在であり、感情はより自己中心的な表れをすることを私はよく知っている。しかし神様は心情の存在であられ、心情は真の愛、即ち完全なる犠牲、絶対犠牲の表れ方をする。神様は過酷であられることを敢えて求めておられる。私に真の愛が届くまで過酷であられることを求めておられる。そういう神様であることを私に訴えることもなく、私に無視される神様であることも当然のように、、、。
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