2014年1月9日木曜日
今日の想い 688
概念かイメージか。概念は本質的だけれどもイメージは幻想的だ。幾重にも重ねられたイメージを壊しながらより本質的な概念へ近付いていく。イメージをどこまでも壊さない限り概念は現れない。私の周囲にある現実は描かれたイメージを重ね着していて、本質である概念を見届けようとすればイメージを一枚一枚剥いていくという、そんな内的霊的作業が必要になる。重ね着しているから見るによく触れるに優しい体験イメージが、本質が剥き出しにされて概念の正体を見るとなるとイメージとは正反対の冷たい概念であることがよくある。或いは逆に、人生では避けて通りたい体験イメージが実は自分の存在にとってなくてはならない必要概念であったりする。とにかくイメージは私の思考と感情で紡がれているが、思考を壊し感情を否定し、新たな思考と感情を再構築して概念と言う本質に近付いていく訳だが、特に感情は生きる生命活動そのものなので感情を否定していくことは堕落した自分を壊していくことに等しい。概念、それはロゴスといってもいいけれども、ロゴスは言葉の本質だ。最初に言葉があった。即ちロゴスという言葉の本質があり、ロゴスによって全ては存在している。自分はそれを理解の取っ掛かりが持てる概念としているが、それはロゴスを理解するのは霊界存在になった時だと思っているからで、正確に言うとロゴスイコール概念ではない。イメージに対してどちらもより本質的であって、ベクトルの向きはロゴスであっても概念であっても同じだから、今の私の認識度合いからすれば同じことになる。前置きが長すぎたが、現実である私の周囲のイメージは幻想的だから変わり行く流動的でもあって一貫していない。同じ事柄と思えることでも以前のイメージと今のイメージは異なるし、また未来のイメージもまた違うはずだ。幻想的で流動的だからこの世は仏教でいう色の世界であり、喜怒哀楽という感情世界だ。この世の色に溺れ、喜怒哀楽に翻弄されているうちは概念は掴めない。しかし色を味わい、喜怒哀楽を味わうのは、内的霊的には主体的位置に立っていて、見えなかった概念を宝探しのように見出して霊的本質として天に捧げている。神様は全ての創造を為されたけれども、神様に取っての創造の意味は、抱えていた全ての宝を与えるために投げ出したと言える。持てる愛の全てを投げ出された。そして何も無い神様になられた。そして子である人間が一つ一つの愛の宝を見出して天に捧げるなら、持てるものの何も無い神様であるから神様にとっては人間が神様の救いであり神様を存在させる存在でもある。神様が滅べば人間も滅びるけれども、人間が滅びれば神様も滅びてしまう。人間の創造は本来神様と一体不可分として創造された。み言葉でいう神様と人間の父子関係はそれほどに強く、離れようにも離れられない関係性がある。しかし堕落して、神様の元を遠く離れてしまった子女である人間を想って、慕い焦がれて、神様はどれほど悲しまれたか。どれほど悲しまれて存在を否定されるほどの青息吐息の中に沈まれたか。ロゴスの神様であられるけれども、御父様が私達に教えてくださった最大の救いの言葉は、神様は心情の神様であられるという言葉だ。私が自由気儘に放蕩三昧の人生を送り、罪と悪に塗れた人生を送って地獄に落とされるとしても、この心情の神様であることをを知った私は心情ゆえに救われている。心情ゆえに地獄も天国だ。色の世界、喜怒哀楽の世界が地上なら、霊界の天国は煌びやかな心情世界だ。イメージを剥いて壊していくと概念が現れる。しかし概念、言葉の本質は、色もない喜怒哀楽もない冷たい概念や数式が忽然と存在するのではなく、それは愛の本質、心情が概念の心、性相として現れる。
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