2014年1月25日土曜日

観念の地震崩壊

私達はそれぞれの観念で生きている。観念とは内的主観であり、主観が閉鎖的なものから客観、客観から原理観へと、その観を次元移動できなければ物事の本質は見えてこない。地上にへばり付いて生きる平面的な観念で生きるだけであれば高次の霊的存在、ましてや神霊や天の父母様との関わりが殆どない状態で生きている。私達は原理のみ言葉を通して霊的な言葉を知っている。しかし知っているのは霊的言葉の鞘(さや)だけであって、鞘の中身を知るのでなければ霊的言葉も普通の言葉と何ら変わりない。み言葉の鞘だけを確認してそれが中身だと思っている。鞘だけを何百回、何千回口にしてもみ言葉の中身、本質は隠されたままだ。と言うか、み言葉に対する偏った観念が鞘を剥いて本質に至ることを阻害する。訓読するなら訓読するで、鞘を剥くという内的霊的作業、それは平易な言葉で言うと深く問うと言う事だけれども、そうした訓読をしなければ鞘だけを確認するのみで、それでみ言葉をわかったつもりになって逆に御父様から遠ざかることになりかねない。私の観念で御父様をどれ程連呼しても、御父様は姿を現わされないし相対圏には立てないということだ。使命の大きい者、天の期待の大きい者はその観が平面的次元を越えている。御父様の期待に応えたいと真摯に願うなら、自分の主観を常に壊しながら、より原理観に近いものをその都度その都度打ち立てていかなければならない。今の自分の主観に留まっているから新しい次元が見えてこない。新しい次元が見えなければどれほど現状に不満を抱き、現状を変えたいと思っても現状から逃れられない。スパイラルアップして次元上昇すべきなのに同じ次元で回り回っているだけだ。祝福家庭は御父様の血統圏にある。御父様は祝福家庭を愛されるが故に、地上の平面的次元に留まる私達を良しとはされない。今の私の主観を壊して次元を上げていくことを願われる御父様だ。そして御父様は願われることを確実に決行される。それは霊界におられても変わらない。変わらないどころか肉体を脱がれて益々自由であられ、祝福家庭個々に介入される。現状を変えたいとは思っているけれども、一方で現状に胡坐(あぐら)をかいている。現状を変えることは胡坐をかいているその床をも取り払う事だ。何かの具合で生活や現状が脅かされる局面に来た時どうするか。おどおどして悲観に暮れるのであれば御父様に顔を背けていることになる。今の私の主観を壊して次元を上げる為に、御父様が介入されようとわざわざ臨在してこられたからだ。内的霊的手術をされる為に臨んで来られた。遠いところで動いていた摂理が私達の生活空間にまで及んでいる。私は今の一触即発の局面に、御父様が神霊を従えて臨まれたのを見ている。

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