2009年1月31日土曜日

愛すべき中心

随分温和になられた、と言う印象が責任者に対してある。相も変わらず怒鳴り散らすのは昔のままだが、その洗礼を受け取る者の中に、余裕がある。怒鳴られて変われるほどに、受け取るものを吸収出来る瑞々しい魂とは成り得ていない。時を経るほどに魂は侵入するものに対してしっかりガードすることを心得る。怒られる当人も周りもスコールの過ぎ去るのを視線を外し心を部屋の外に非難させて待っている。収まると何事も無かったかの様に頭をもたげ、粛々と会議は続けられる。人数が少ないだけに流石に今回は己が未熟を指摘された。こちらとしてはみ旨を歩んできた殆どを、その責任者の顔を見ながら今に至ったので、直球で受け取ることに何のわだかまりも無いのだが、向こうにしてみれば傷つき具合を慮っているのか随分遠まわしな口ぶりで何ともこそばゆい気持ちだった。信仰生活だみ旨だと言っても、外的表面的に見ればヤクザみたいなものだろう。信仰的言葉が行き来してはいるが、受け取る側は命令を下す為の脅し文句ぐらいの認識しかない。しかしその動機は御父母様にあるし、愛と信頼にあることはよくよく理解している。日本食口であるなら多くの者は先輩とし上司として仕えてきた。み旨を語り信仰路程を語るに、良くも悪くもこの責任者を外しては在りえない。摂理の為の摂理、摂理基台作りが長かった為、未だにその影響が責任者にも組織にも、そして我々にもある。面と向かえば先ず気持ちよく打たれようと覚悟する意志を用意させられる。しかし耳痛い事はそう容易く受ける事はできない。出る釘は打たれるではないけれど、何か行動に取り掛かることで打たれる要因は出てくる。何も行動しようとしなければ打たれるものは見出せない。打たれる事が怖くて、下手に行動に手を付け苦労する事が嫌で、今の安全圏から出ようとはしなければ、それはサタンも手を付けない代わりに神も関心を持たない。要するに摂理とは無縁の存在として自己擁護に埋没している。ひとたび護りの姿勢に入ると中々抜け出せないものだ。責任者とすれば内的霊的見地に立ち、兄弟の魂の成長や霊的生命のことを考えれば怒鳴り散らしてでも当人を揺り動かし目覚めさせたいのだろう。憎まれ口や陰口を言われながらも我々の為に良かれと孤軍奮闘される。苛めることでこそ自分の役割が果たせると思っておられる。

今日の想い 47

ミーティングの席でベンチマークと言う言葉が飛び出してきた。経営優良店を真似ることで上手くいくと考える。基準となる数字、利益率であったり原価率であったりを設定して、いろんな対策を立てていく。数字としての見栄えが良くなるよう、弄ぶようにいじくる事がビジネスだと言わんばかりに問いかける。そこには死んだ無機質の数字を扱い、客に対する想いもはじかれる利益に対する想いも、我々のそれとははっきりと違う。知らない経営用語を耳にしてきょとんとする連中を、上から目線で一瞥する。自分は実力があると言う幻想に、いや恐らく実力は備わっているのだろう。しかしその実力がへし折れた時、何をみ旨を歩む支えにするのだろう。自分の無力さを痛いほど味わいながらも、喜んだり怒ったり、悲しんだり慈しんだり色とりどりの感情をも味わいながら魂の活動を実感として受け取り歩んでいる我々は、どれほど生きることの本質に近い立場か。悲しいかな我々の組織でさえ、上下前後左右、一貫して貫かれた真の想いが見出せない。ビジネスに対する想いの中に天が受け取る内的霊的事柄が見出せない。天に対する思い入れを熱く語る責任者ではあっても、その想いが熱が、ビジネス活動の中に浸透することはない。ビジネスという堕落世界に浸透しきったシステムそのものの中に、真の愛は介在していない。万物復帰で走りながら、信仰から来る精神力を投入したように、ビジネスの中に注ぎいれるべき内的霊的なものがある。真の父母から流れてくるところの愛の要素でビジネスシステムを再創造することが、我々がビジネスに介入する意味だと思う。決してこの世的売上追求や利益追求そのものに天の願われる行動は含まれていない。新たなビジネス立ち上げには勿論、日々の業務ひとつひとつにさえ真の父母から来る心情を投入することだ。作る商品に想いを込め、受け取るお金1ドル1セントにすら込められた想いを受け取る。備えられた備品それぞれを愛おしく想いお客や従業員に天にとりなす感謝の念を植え込む。今日一日の営業で復帰された内外の供え物を報告し、そして五年十年というロングタームに於いては既存のビジネスを天の願われるものとして再創造していく創造活動に寄与していく。注ぎ込まれる内的霊的なものを、真の愛の流れ来るのを、内的熱として熱い感情として受け取ることがどれほど刺激的なことか。

未確認物体

夜中にふと目を覚ますと、左わき腹の上方に青く光る球体が浮かんでいる。風船を思いっきり脹らましたほどの大きさで、私の身体側面に沿って頭の方に移動していく。びっくりしたものの、その様相がたいそう綺麗で、中心の青白く淡く光る核から球体の表面に青白い神経が絡まりながら伸ばされ、その末端が球をかたどる形で表面を細かい木の根を張り巡らしたように被っている。無数に枝分かれした神経の中に青白く光るものが流れているようで粒子的に光る内容物が移動しているのが確認されるし、枝分かれした神経そのものも這うように動いている。その全体的な美しさに圧倒されると同時に、詳細を目にすればミミズか何かの虫が表面を蠢いているような様相に気持ち悪さも覚えた。その球体は、驚きのあまり起き上がった私の横をゆっくりと移動しながら、壁に吸い込まれるように消えていった。この存在物が霊的なものであることは確かだが、それが一体何なのか気になって仕方が無い。妻も夜中に目を覚まして引きつるような低い悲鳴を上げる事が良くある。強い薬を飲むことによる幻覚の類だと思っていた。大きな黒い蜘蛛が顔に被さってきただとか、黒い大きなものが壁に張り付いているだとかは幻覚だと思うが、この前は赤く光るボンボリが浮いているといいながら空中に合わせた視線を移動させていく。球体で光っているというその共通点を思うと、彼女が見ているものも幻覚と決め付けることは出来ないだろう。自分が見たものを幻覚だと決め付けることは出来ない。子供の頃に見た宇宙船の夢と建物や木々が洪水の後のように水に覆われている世界の夢を見たが、それ以来の不思議な出来事だった。

今日の想い 46

百件もあった店が今は三十件にも満たない。その三十件も殆どが赤字だ。もちろん世界的な不況のせいもあるがもともと損益分岐の辺りをうろうろしていて、天気も安定していて平穏な日々であれば幾らか利益も出るのだが、冷蔵庫が壊れたとか保健所に指摘されたとか、毎月何かは起こるので利益は吹っ飛ぶ。これから恐慌にでも落ち込もうかという時にどう踏ん張ればいいのか。そんな中でもうちは今までの経営状態がそれなりに良かった店の一つなので、これから新たに出店することとなった。上から言われればはいと応える習性が浸み込んでいて抜けないので、分かりましたと受けてしまったのだが、どうしたもんだろうと今になって悩む。今更ちょっと難しいですとは言えないしやるだけの事はやろうと思う。確かに二十数年もレストランに関わってきて自分の手で一軒も出店しなかったというのは、それが成功したとか失敗したとか言う以前の事として恥ずかしいことだろう。やる以上は頑張ろうとは思うが、気負いすぎて上手くいく訳はないし空回りして形にならなかったらそれこそ申し訳ないので、堅実に進めて行きたいと思う。今の経済状況で立ち上げる者はそう多くはないだろう。だからこそチャンスだと言う者もいるが、そう言う者に限って手を付けようとはしない。出店資金として留保していた金も言われるままに吐き出し尽くした。数年前のように幾らでも残高が増えていく状況には無い。火中の栗をわざわざ拾いに行くようで明らかに苦労の連続が待っている。しかしこれこそ御父様の精神だろう。苦労こそ我々の価値観だ。苦労し打ちのめされて何ぼだ。2013年までに出来る孝行だと思って顔を逸らさず骨身を曝して飛び込んで行きたい。店という存在を立ち上げる事が天宙創造された神様と同じ立場で創造することであり、どのような形であれ一度は叩かれると思う。しかしそこからが本当の出発だろう。形の上での創造は形だけのものであり、その店に汗と涙を投入し魂を入れ、そして育てることこそ本当の創造だ。人間であることの価値の一つは創造性にある。創造性を発揮してこそ自分は人間存在と言える立場に立つ。

2009年1月27日火曜日

今日の想い 45

どこまで自立した自我、即ち自立した信仰観を供えているか。アメリカは人種の坩堝と言われるように、多くの人種が共存している。自由の象徴である国旗の下に一枚岩であるかというとそうでもない。歴史の背景が違い、文化の背景が違うと自ずと衝突は生じ安い。摂理的国家として恩恵を受け、政治経済パワーのアメリカへの一極集中が許された為、少なからず経済的繁栄を今日まで続けてこれた。個人に於いても会社に於いても、上り調子の時は弱点があったとしても勢いに吸収される。人種間の違いも繁栄状況に於いては違いを受け入れる余裕がある。しかし下降を始めると違いが衝突を生み、衝突が更なる衝突へと向かう悪なる感情、悪なる力を増幅していく。そうなると一瞬にしてこの国も崩壊しかねない。そこにそれらに勝る善なる力、即ち愛のパワーをどれだけ注入できるかが命運を決める。我々とて同じだろう。我々のグループほど、多くの日本人を抱えた処はない。現場に於いても日本人は多い。しかし同じ日本人ではあるけれど背景が大きく異なる。人種としては同じであっても、或いは同じ御父母様のもとに結束する群れではあっても、しかしながら通過した信仰路程、特にどの国で歩んでいたかにより信仰観が違ってくる。同じ肌はしていてもそう言う違いがある所がアメリカ的と言えば言えないでもない。アメリカでの信仰生活が長いと、個としての独立意識が強い。責任者の示す事柄に対してその場では頷いても、自分が納得しない限り本気で動こうとはしない。即ち言い訳の為の行動となりやすい。外的実力に於いてはそれなりに力を蓄えているし、議論でもしようものなら太刀打ちできないだろう。日本での歩みが長いと、集合的意識が強い。上の願いや命令に対して自我の鏡に反射させて鑑みるというふうに訓練されていない。上の言葉は絶対的であり自分でそれが良いか悪いかの判断はしない。全てを鵜呑みにして行動してきた。しかし今になって自分の中に何も積み重ねられたものが無い事に気付き、頭を傾げながらも身体は動かしてはいるが、性根は入らないという落とし穴に入って抜け出せないでいる。立ち止まり症候群だ。今の体制は、ピラミッド組織体制の形はしているが生きた有機的繋がりにはなっていない。この組織が生きる為には、この二通りの在り様が一つになって次元の違う新しい組織としての進化を進める必要がある。組織として、天から頂いた神霊に完全屈服する自我意識を供えた個人個人の集合体となり、組織行動が個々の彩り溢れる在り様で描かれる芸術様相を呈するようになる。

2009年1月24日土曜日

今日の想い 44

イエスは声高く叫んで、ついに息をひきとられた。そのとき、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。イエスにむかって立っていた百卒長は、このようにして息をひきとられたのを見て言った、まことに、この人は神の子であった。(マルコ15章)
イエス様が十字架にかかられて始めて、心ある者達はまさしくこの御方がその方であったと感情に於いて納得できたように、真の御父母様を感情に於いて納得できる時がくる。その時、兄弟達もそれまでの認識がどれほど拙い薄っぺらなものであったかを悟る。その時こそ呆然とするのだ。地を叩いて悔いるのだ。過去に遡ってやり直しの利かない事を歯軋りしながら恨む。日中であるのに太陽存在が陰って暗くなり、雷鳴と共に天が割け地が割ける。地震で引き裂かれた大地の割れ目にイエス様の身体は沈んで行った。地の底に引き擦り込まれた肉体が表すように、イエス様は地獄の底に引きずり込まれながら先ずそこで勝ち取るものがある。肉体をサタンの生贄として捧げ、霊の勝利を神に返そうとされた。キリスト存在として肉体をまとってこの地上に来られた意味は、肉体をもってしてしか為しえないものがあったからだ。決して十字架が神の計画でもなければ本人の希望でもない。それは真の夫婦になることであり真の家庭を供える為であった。真の夫婦となり真の家庭をなし真の父母となるその理想と希望こそ肉体をまとった意味だ。しかしその愛の理想と希望の一切合切をサタンにくれてやり、完全失望と言う真っ暗な地獄に於いて、全き犠牲をはらうことで絶対愛の光を創造された。地獄で創造された愛の光こそ地上に救いをもたらす大きな足がかりとなった。復活されて弟子達に愛の勝利を伝え授けて回られた。子供のように興奮され、はしゃがんばかりの勝利の凱旋だった。そこには十字架への恨み、サタンに組した人類に対する恨みのひとかけらも無い。我々はまだ尊い犠牲の意味は解っていない。陰りの全く無い魂を受け取って共感できる者となりえていない。そういった感覚だけでもわかれば、自分の在り様が恥かしさの極致にあることがわかり、居た堪れない。その目覚めを御父母様に対して遠からず経験する。今出来る事は、あらん限りの思考力を駆使して、み言に没頭しみ言とひとつになり、あらん限りの感情力を駆使して、祈り、御父様の高次の心情を尋ね、あらん限りの意志力を駆使して、身悶えしながらサタンに仕えるこの肉体肉心を凌駕する。それがどれほど困難を極めようとも、とにかく立ち向かう事だ。転んでも転んでも立ち向かう事だ。

2009年1月22日木曜日

思い出

母の野良仕事について行った、その帰りだった。朝から雨雲が空に渡り、取り合えずは出かけたものの、田んぼに足を入れると直ぐにポツリと来た。母が物憂げに灰色の空を暫く眺めると、畦に座って見ていた息子に納屋に入るよう促した。足の泥を洗い落とすと帰り支度を始めたが、思ったほど雨脚は強くない。しかし一端田んぼから引き上げると面倒になったのか切り上げる事にしたようだ。小雨模様の中を息子の手を引いて帰途についた。いつもは裏山の祖父がつけた道を登って帰るのだがその日は違っていた。帰りに何処かに寄り道しようと決めていたようだ。田んぼの輪郭に沿って畦道を暫く歩くと山あいの小道に入っていった。足にかかる草の丈が高くなる。膝の方までかかる濡れ草が紺のズボンを湿らせる。母はその間一言も口にしない。子供心に不安になった。母が、握っていた手を一瞬力を込めて引くと小道をそれ、笹が生い茂る急斜面を駆け上っていった。その勢いについて行けず繋いでいた手が離れる。母の咄嗟の行動を恨めしく思いながら、大人にすれば五、六歩ほどの斜面を後を追ってのぼった。母の姿を確認しようとする眼前にはなだらかな斜面が広がり、思いもしなかった光景が飛び込んできた。ちょうどその区域だけが選ばれたように、笹や木々がその周りを囲って生い茂り護っている。目を凝らすと霧の中からひとつふたつと浮き出てくるものがある。霧の中に滲みながらもその輪郭を現してくると、まばらに高い背を伸ばしてひとり咲いていたり或いは群れていたり、思い思いの在り様で佇んでいるものがある。小雨に煙る斜面にはゆりが群生していた。ゆりの花言葉の如く、誰にも知られず天界から降りてきた天女の化身のように純潔を護り、私にその存在を知れたのを悔いているようで、細い身を微動だにせず佇んでいる。一瞬躊躇はしたものの、母を捜しに自分の背丈ほどもあるゆりの中に入っていった。かぐわしい花々は清楚な香りを隠し切れず、足を進める毎に乙女に触れてしまうような感触をその香りの中で覚える。たじろぎながらも心地よさに身を任せていると、母が突然現れた。四、五本のゆりの花を手にしていた。そして焦るように自分の手を引くと、その異次元を後にした。暫く経って、物心ついた私は何度か母にその事を尋ねたが、母は覚えていないしそんな場所は知らないと言う。本当に覚えてないらしい。夢だったのか想像だったのか幾度も自分に尋ねてみたが、しかし自分ははっきりと覚えている。手折ったゆりの花を一本渡されて、呵責の思いで大事そうに抱えながら、ビクを背負った母の後を付いて帰ったことをはっきりと覚えている。家の田んぼから歩ける距離だったので探しても見たが、未だに見つからない。純真な魂を備えることが出来た時、それは再び姿を現し見つけることが出来るのだろう。

第44代大統領就任式

平日なのにメインストリートも車の通りが少なく、ビジネスになるのかと心配したが閉めるわけにも行かないので、いつものように準備して客の入りを待った。案の定、就任式がひと段落つく一時過ぎまで、3テーブルのみで、いつもなら一時半位にはランチラッシュが終わる頃なのだが、その時分からやっと客が入り始めた具合だ。過去にも何回か就任式はあったが、これほどに影響を及ぼしたのは初めてのことだ。ここからワシントンのモール(キャピトル、モニュメント等がまとまってある区域)まで地下鉄で40分くらいだが、この辺りに住んでいる人や働いている人は、わざわざ人が溢れかえっている会場まで足を運ぶ人は差ほど多くは無いと思う。しかし皆が皆、テレビの就任演説に噛り付いて見たのだろう。オバマ人気恐るべしと言った感じだ。経済に対する閉塞感が頂点に達し、次なる政権に期待をかけざるを得ないだろうし、前政権に対する落胆が大きければ大きいほど、新大統領の輝きは大きく映る。期待度のゲージがフルに振れた視線を、浴びれば浴びるほどに本人は益々カリスマ性を高めていく。初めての黒人大統領とあれば黒人人気は当たり前で、感情表現の大きい彼らは幾らでも彼を祭り上げていく。国民の一番の関心事は経済政策に違いないが、具体的政策メニューのお品書きはこれから出される。国民に取って喉越しのいいものとは絶対にならない。その覚悟を仄めかす就任演説でもあったのだが、誰もが熱気に酔いしれて気分上々でYES WE CANを連発していたけれども、醒めた頃にうだうだ言い始めるのは解りきっている。アメリカはいよいよ国家レベルの酔いから醒される。国家的繁栄という神の祝福は、それを他国に分かち合える精神的土壌が建国精神として生きていたからであり、更なる精神の高みへの指向を神が絶対的に信じて下さって今日までこれた。しかし神は信じることを放棄せずとも、訴えるものは五万といる。地獄の底が撤廃された今は打たれる条件があれば容赦なく打たれる。それが個人であろうと国家であろうと変わりない。国家の自惚れはもはや目を当てる事ができないほどだ。打たれるべき点は気持ちよく素直に打たれるべきだ。その覚悟がオバマを中心として本当に出来るのであればアメリカは再び返り咲く。しかし無節操な経済至上主義を懐かしみ恋しても、その当時に返ることは決してない。覚悟ができないのであればアメリカは分割されてしまうだろう。オバマ熱気に酔う国民を見ながら、これは酔いが回ったアメリカ国家への向かい酒なんだろうと思えた。

2009年1月20日火曜日

今日の想い 43

御父様がこの地上を去られた時の、自分の感情を想像できるだろうか。魂の拠りどころを失った自分は生きて時を旅して行けるだろうか。かつて自分は自分の存在の拠りどころを見つけることができす、自己存在が砕け散りそうな空しさの極致を垣間見た事がある。どう気持ちを吹っ切ろうとしても不安と恐怖が益々大きくなり、このまま放って置けば間違いなく正気を失うと思った。御父様に繋がっている自分だという絶対的信頼があって、喜びが喜びであり悲しみが悲しみであり、怒りも切なさも全ての感情活動が活き活きとしていた。御父様に出会い、御父様を御父様と呼べる自分を見出し、御父様に繋がる糸をしっかりと手繰り寄せながら、赤子が何の不安も心配もなく母の胸に抱かれるように、御父様の自分への愛の全き信頼の中で魂を培うことができた。お父様がやがてこの地上を去ってしまう事など話としてはあっても全く信じてはいなかった。自分に取ってありえないことだった。しかし最近、そのありえないことが遠からず来ることを解らせようとする瞬間が時々ある。そうなったら自分はどうなるのだろうと立ち止まり思いを廻らす時がある。その認識のないままに、いつまでも今の在り様が続くことを疑わず、あまりにも甘え通しで時を過ごしてきた。自分には御父様が去られて尚、独り立ちできるほどに魂の成長はしていない。その時が来る事を無邪気にも認めず、嫌だ嫌だと叫びながら試練を遠ざけ、やがて来る時の何の準備も為されず、そして御父様に対する今の自分の中には甘えしか見出せない。御父様、大丈夫ですと言えるだけのものは自分には無い。感情を織り成す魂が拠りどころを失い、美味しいものを美味しいと感じる感情を取り戻せるだろうか。拠りどころを失った魂の抜け殻で、相対に接し子供に接する事ができるだろうか。外界のあらゆる脅威に曝され、昔のように心を閉ざして生きた死人と化すのだろうか。安らぎの世界に入ろうとされるその時でさえ、裾を掴んで泣き喚くに違いない自分は、大親不幸者に違いない。

2009年1月19日月曜日

今日の想い 42

ホテルに活動の拠点を移すまで、御父母様が来られる度に使われていた家がある。兄弟がそこに仮住まいしているので年末の挨拶を兼ねて寄って見た。御食事の為にお呼びがかかった折はいつもキッチンがある裏口から入っていたので裏口の呼び鈴を押した。そうすると表に回ってくれと言う。躊躇しながらも表に回り、始めて正面玄関から入る。何か分不相応な行動を取っているようで、気後れする。玄関の重たい開き戸を開けると、御父母様をお迎えする拍手と花束を受けられる御姿が当時の印象そのままに脳裏に再現される。別にその場におられる訳ではないと解っていても身体は反応する。そのせいで挨拶もギフトを渡すにもたどたどしいものになってしまった。上に上がってみますかと促されて二階に足を運んでみた。入ってはならない境界を越える後ろめたい気分でもある。寝室を見せていただいたが意外と狭い。ホテルでドアの隙間からお部屋の中が見えた時、数え切れないほどの薬のボトルが目に入った事がある。この部屋の備え付けのキャビネットの上にも所狭しと並べられていたのだろう。姉妹が写真を取ってくれると言うので寝室で御写真を背景に一枚と、階下のダイニングでもう一枚取ってくれた。大きなダイニングテーブルでお茶をご馳走になりながらも視線を奥に移すと、御父様がいつも座って御食事をされたり責任者の報告を聞かれたりしておられた椅子の背後に、自分の前かがみの姿が当時のままに輪郭を為す。担当のオンニーに説明するように促され、御父様の背後に回って皿を手にされるままに説明したようではあるけれど、緊張のあまり何をどう説明したのかはとんと覚えていない。蓋付きの湯のみの蓋を持ち上げられて、(自分は)子供みたいな者だからと聞き取れないほどに小さく口にされたのが唯一言葉として思い出される。しかしながら背を丸めて座っておられる背後に沿うて受け取った、御父様のあまりにも小さな印象だけはありありと残っている。その印象が時として思い出される度に、壇上で力強く語られる御父様に対するのとは違う、年老いた親に対するのと同じ、何とも言えない切ない想いが去来する。ひと時雑談を交えて家を後にしたけれども、急な思いつきで訪ねてきたようで何だか呼ばれて来たような感触もあった。

2009年1月18日日曜日

今日の想い 41

御父様の願いを受け取り、それに応える。今までにも多くの願いを中心者を通して指示され受けてきた。そして今も常に、願いがここにあると言われ続け受け続け、歩んでいる。しかしながら願われる内容にどれ程応えることができ、満足していただいただろうか。はっきり言って御父様の願い、中心の願いに応えた事はないし満足していただいた事もない。どころか、受け取ってもいないし受け取ろうともしていない。願いを受け取る程に成長していた訳でもない。少なくともそういう疑問を投げかけて見る事だ。言われるままに肉体を動かしてはいたものの、御父様の願いが自分の願いであるという強い衝動を覚えることなく、受けた願いを自分の願いとして捉える事が出来るかという疑問を持つこともなく、条件反射的に動いていただけの事であって、それは一つの自我を持った存在として願いを受けたとは言えない。一つの為さんとする事柄に対して、そこに達成したいという熱い想いが無かったら、辿り着く事はできないだろう。熱い想いが入れば入るほどに達成度合いは高まる。この世の人間はそれなりに自分から来る夢と理想を持っている。抱く夢と理想が高尚なものであるかどうかは別として、自分から来るものであるから自ずとそこに熱は入る。下等なものであれ只単に本能的なものであれ、欲を満たすという夢を追い求める事を生きる道理として受け入れている。霊視するならこの世の人間は熱いものを内在する赤色を帯びているが、組織の中で機械的になった兄弟は放つオーラは見えにくい。過去は条件反射的に動く、そういう在り様でしかついてくることができない時期もあった。しかし時代は今、変革の只中にある。真の父母によって生命を与えられた自我が揺り起こされ、御父様の願い中心の願いを自分の夢や理想として受け取ることができる自我の目覚めを迎えている。太陽存在が活発化しているように、小宇宙としての人間の太陽存在である自我も光を放ちはじめる。自分が今生に生まれ出でた事の意味は、生きた真の父母と生きて時を同じくし、真の父母に拠って深い眠りに落ちていた自我を点火し、真の父母の夢と理想、即ち神様の夢と理想に対する熱い熱い想いが大爆発するその只中で、涙に咽ぶ喜びを真の父母と神様と共に分かち合う事にある。

2009年1月15日木曜日

今日の想い 40

人類は霊的領域から地上界へ降りてきた存在だ。物質で形作られた肉体という棲みかを頂いて、息のある期間、地球という神様の身体の中で生かされている。何一つとして自分の所有物はない。全てが借り物であり、ありがたく使わせて頂きながら自分が出来る事で貢献させて頂いている。御父様ですら水一滴でも大切にされ、何ら所有されるものも無く歩んでおられるように、我々も所有観念を持つべきではない。裸で生まれたどころか肉体すら借り物であるのに、あれもこれも自分のものだと言い張るのは神様に取ってみれば泥棒根性でしかない。キリスト神秘主義者はキリストは地(地球)の霊であり、地(地球)がキリストの身体であるとする。いつしかキリストの身体が財産の対象となり売買の対象にされた。神様自身の身体でありながら、サタンを親とする堕落人間はそれぞれ勝手に線引きをして自分の持ち物だ身体だと言い張る。全ての地が堕落人間によって唾を付けられ切り取られ、神様はサタンに全ての身体を奪われてしまった格好だ。さしずめ手を付けられなかったのが海洋圏でありそして大気圏である。だから御父様は多くの時を海上に持たれた。サタンが所有権を言い張らない海上で時を過ごされ魚釣りをすることで復帰に関する摂理的霊的重要事項を行使された。地を取り巻く空気や風と、海を循環する水だけは人類の固有財産対象として区別されず、神様のものとなれるよう手を付けられずにいた。大気や海は、いつか実現される地球を取り巻く真の愛の、目に見える物質的対象なのだ。御父様が前々から兄弟に対して所有、特に家などの不動産の所有を願われない事についてよくよく考えて見る必要がある。自分名義のものがあるかどうかが問題なのではなく、それに対する所有観念があるかないかが問題なのである。多くの兄弟は自分名義の家を所有している。自分はこの年になりながら財産と言う類のものはない。自分名義の家でも持ったなら、自分は恐らく所有観念を払拭できず悶々としただろうからいつまでもアパート住まいであることを感謝している。しかし自分名義でありながら所有観念を捨てきった者ほどの能動的強さとしての公的意識を勝ち取った立場ではないので、褒められるものでも何でもない。

2009年1月14日水曜日

み旨という意味

唯物的になってしまった我々人間は、仕組み作りに多くの精神力を注いできた。ビジネスに関わっていれば、仕組み作りを創造してきたと言ってもいい。製造の仕組み作り、利益を出す為の仕組み作り、売上を上げる為の仕組み作り、組織構成の仕組み作り、人材育成の仕組み作り。組み立てられると、今度は組み立てられたものに自分を押し込むことに精神力を注ぐ。自らの創造性を発揮できない者は殆どの精神力をここに注ぐ。自分に合うとか合わないとか言ってられない。今日、この人間社会は生きる為の仕組みが隅々まで出来上がっている為、そこに自分を組み込めないとするならそれは社会的死を意味する。今の仕組みの根本的問題は、有機的な仕組みとなっていないことにある。社会生活に於いて会社を始め何らかの組織の一部としての役割を一人一人がする訳だが、表面上は歯車の役目をしているようでも組織の目的を自分の願いや理想と捉える事が出来ない。或いはハナから歯車以上の関わりを与えずに、それぞれの機械的役目だけに専念させる。有機的な仕組みとなっていないため、有機的な働きが出来ない。我々の組織に於いても同じような事が言える。組織の理想と願いが自分の理想と願いだと言い切れるまで、共有しようとする意思を誰もが持つべきであり、それぞれが個性に合わせて最も貢献できるように、周りもそのように指導し本人もそれを捜し求めていく必要がある。み旨として歩む意味は、この世の仕組みに入り込むのと根本的に違う。御父様の願いが根底にあり御父様の愛と神霊がそのみ旨に関わっている、即ち神様の愛と神霊が最初から最後まで関わっていると言う、この意味をよくよく熟考する必要がある。私は魚関係を経てレストランに従事しているけれど、この世のレストラン業に従事する者の内的在り様と自分のそれとは全く違うと言う事ができる。何も解らずに歩み始めたけれど、御父様の願いが何処にあるかをいつも尋ねながら業務に内的にも外的にも投入することで、どうしてみ旨としてこれを望まれたかが見えてくる。周りの責任者が理解の及ばない、レストランを歩んだ者しか見えないものがある。それを説明出来るならそれに越した事はないのだけれど、霊的なものが見えてくるとしか説明のしようがない。別にレストランに拘らず、み旨として御父様が指示された全ての業務に、そこでしか見出せない内的霊的な深い事柄を悟る事ができるはずだ。そういった神秘内容霊的内容を多かれ少なかれ得ていることを踏まえて、責任者はそれぞれのみ旨を担当する者に接するべきだ。責任者の独断がどれほど霊的な発芽を踏みつけ、実りとして育てることを破棄してきた事か。仕組みの頑丈さから言えばこの世のものと比べると心もとないが、この世の仕組みに組み入れられて見えてくるものは知れている。しかし、背後にあるものが天と繋がっている為、入り込めば入りこむほどに御父母様の願いと理想の輪郭がはっきり見えてくる。

2009年1月12日月曜日

今日の想い 39

兄弟には甘えがあり、この世の人が渡っていく厳しさを持ち合わせていない。グループ内に於いても甘えが目立ち、与えられた責任事項に対しても他人事の域を脱しきれず、責任を取るという意味がわかっていない。上司がそう口にするように、多くの者にその思いは確かにある。しかし今のそういう在り様はそれなりの経緯があってのことで、個人個人を責めても解決できることではない。甘えを助長するようなものが体質としてあるのか、甘えを持った者しか残れずに厳しさを備えた者は遠のかざるを得なかったのか、そのどちらもあるのだろう。愛の何たるかが解っていない愛の群れに、摂理としての要求が重荷として支えきれないほどにのしかかる。最初は何とか誤魔化しながらでもそれぞれの中で消化出来ていたものも、更なる要求が度重なってくると消化不良を起こしてしまう。消化できる容量を増やすことが願われていたのだろうけれど、そう簡単に人間の度量や会社の度量を大きくする事はできない。度量容量を大きくする為の教育なりしくみが出来ていれば、ここまでのお粗末な実力や人間力組織力にはならなかったと思う。しかしながら教育や仕組みづくりもそれ相応の時間なり資金を含めたエネルギーが必要になる。期限を切られ、このノルマと言う切迫観念に捕らわれると、金の卵を産む鶏の首まで絞めざるを得なかったと言うのが責任者の言い訳に違いない。しかし従う者は従う者として今の在り様に対する責任が同じ程度ある。内心は無理である事を感じていながらも口ではやりますと言う。そうなると後は、やれることはやりましたと説明できる言い訳作りの行動でしかないだろう。決して建設的だとは思わない。大風呂敷を広げ、身の丈に会わない目標を与え続け指示を出し、地に着かない足が更に浮き上がって取り返しのつかない事態にならないように、先ず現状認識をしっかりとやり、その上で内外の再構築をすることが要求される。目立たない見えない事柄に時間とエネルギーを費やす覚悟を要求されている。その覚悟を会社としてグループ全体として責任者として、持てるかどうかが問われている。覚悟が出来ない限り、どこまでも落ちていく。覚悟が出来てやっと底打ちができる。

天国と地獄

天国に行きたいからとか、地獄に行きたくないからとか、そう言う動機付けで信仰の歩みを続ける事が出来るのだろうか。天国行きと地獄行きを、さも有名大学にでも入る感覚と同じように捉えて、天国行きの門をパス出来る様に善行を積んでいく。地獄に行きたくないから、中間霊界で半永久的に労働をしたくないから悪の環境圏を避け、これをしてはならないあれをしてはならないと指摘された事柄だけを頑なに守り通す。いつから兄弟の信仰生活は冷たい規制と規律でがんじがらめになったのだろう。こうしなさいああしなさい、これはだめあれはだめ、指摘される事柄に自分を服従させて、それが天国生活だと言うなら、そんな天国に住みたくはないし行きたくはない。そんな天国は自分に取って天国ではない。感謝の想いを持ちなさい、指摘されて始めて感謝するべきだと認識する時点で、それは感謝とは言わないだろう。偽装感謝を続けながら本当の感謝に目覚める事ができるのだろうか。肉の衣を脱いで霊界に入って行く時、自分にあった居場所を自分で決める。光り輝く天国に近い場所は自分に取って合わないとするなら、中間霊界であれ或いはそれが地獄であれ、その人に取ってはそこが落ち着く天国なのだと思う。この地上に於いても人を欺く人間は欺き欺かれる世界に没頭している。肉欲のままに生きる人間は肉をむさぼりあう獣化した人間の中を泳いでいる。神の願いが届く良心を、本質の自我を、別のもので覆い隠し無きものとして扱う者達は選んだ生き様が彼らに取っての偽装天国なのだ。ではそういう、高みから見下ろそうとする神を知り真の父母に侍る我々はどうなのか。我々に取っても今の居場所が偽装天国に違いない。更なる高みを慕う想いがなくて、御父母様の在り様に少しでも近づきたいと切なる想いに駆られる事なくして、今の在り様に安住しているなら偽装天国で満足してしまっている。足もとで蠢く者達と差ほど変わるべくもない。あなたは天国あなたは地獄と振り分ける天使なり霊的存在があるとするならそれはそれで構わない。敢えて逆らう事もないし、天国に行きたくてみ旨の道を歩んでいるのでもない。御父母様の在り様に少しでも近づきたい、御父母様の理想を自分の理想として共有したい、ただただその想いあるのみで真っ直ぐ進めればそれでいい。御父母様が地獄へ行けと言われれば、それに従いその地獄で呻吟しながらも、御父様の自分への願いを受けていることに満足すれば、地獄の呻吟は快感の悶えに違いない。地獄に埋もれて呻いている者達が圧倒的に多いのに、天国が至上の安楽な霊界生活の場であるなら、天国で笑みを浮かべているより地獄で涙しているほうが余程人間らしい。御父様の生き様がそのまま天国生活であると私は信じるし、そうであるなら地獄や中間霊界の何倍も、地獄の撤廃の為に働くところだろう。霊界の御国建設の為、身を粉にして働く事を良しとする者、至上の喜びとする者が集まるところに違いない。

2009年1月10日土曜日

全体的目的

性相的な目的は全体のためにあり、形状的な目的はそれ自体のためにあるもので、前者と後者は、原因的なものと結果的なもの、内的なものと外的なもの、主体的なものと対照的なものという関係をもっている。それゆえに、全体的な目的を離れて、個体的な目的があるはずがなく、個体的な目的を保障しない全体的な目的もあるはずがない。したがって、森羅万象の被造物は、このような二重目的によって連帯しあっている一つの広大な有機体なのである。(第三節創造目的より)
我々の目指すところは何処でしょうかと尋ねた時、上司から全体目的として云々と言う言葉が返って来た。懐かしい響きがあるけれど、内の組織にこの言葉が生きているだろうか。グループに対する天の願いがこうである、と受け取って打てば響くような共鳴体にそれぞれがなっているだろうか。み言から察するに、グループと言う存在に於いてもグループ自身の全体的目的があり、そして個体的目的があると言うことになる。御父様に喜んでもらえるような企業体として世界に展開していく、という内容はグループに取って形状としての個体的目的と見るべきだろう。全体的目的とはその個体的目的をグループの在るべき姿たらしめる為の内的あるべき姿と捉えればいいと思う。この世でもミッションステートメントであるとか社訓であるとかが、内的目的即ち全体的目的の類だと思う。それでは改めて我々グループの全体的目的とはなんだろうか。御父様の願いに応えたいと思えるのは素晴らしいことではあるけれど、それぞれの責任者で信仰観に違いがあるので、形としては同じものを目指していても一つになることができない。グループとしての全体的目的、全体的信仰観というものを押さえておく必要がある。恐らくそこを曖昧にしてきたツケがグループの真の一体化を阻むものとなっていると思う。み言という人間の内的在り様としては最高の教科書を頂いた為に、グループの目指すところもそれでという思いがあるのだろうけれど、み言の説く内容はあまりにも深く広い。深すぎて広すぎて、理解に劣る者には曖昧なものとなってしまう。グループに於ける全ての業務を行うに当たって、全体目的の題目が動機付けとなるよう、全ての判断に全体目的の題目が活きて働くような内的内容となるべきだ。全体的目的を共有したいと思う従業員の数と、思いに対する熱の度合いがそのグループの個体的目的達成のための推進力となり、グループの企業文化になると思う。

今日の想い 38

絶望的なほどの親としての無力さを覚えながら子に対する。この子の中に入っていけたら親としての想いを届けられるのに、必死で近寄ろうとすればするほど、抜け殻をその場に残して遠い遠い惑星に身を隠す。この親の元に生まれ出でる事を選んだであろうに、親の願いとは裏腹に身体だけを得るための仮の家庭だったのか。それとも早くから親の姿を見通して、その場に自分の欲しいものは何も無いと結論付けたのか。そんなことまで考えてしまう。この世にどれ程興味をそそるものがあり、入り込みたい世界があるとしても、魅惑的な目に映るものの背後に、魂の瑞々しさを吸い取る愛の渇ききった霊や、暗い偽りの愛の世界に引きずり込もうと手をこまねいている霊が獲物を待っている。どれ程それを諭そうにも踏み入ろうとする身体は惑わしに酔い熱を帯び、親の想いも言葉も入り込む余地はない。ただ茫然と立ち竦み見送るしかないと言うのだろうか。しかしどれ程に絶望的な立場であっても、神様が受けたほどの絶望は人間の絶望には見出せないだろう。御父様が通過されたほどの絶望の境地を、我々は通過することはないだろう。その認識があれば立ち竦んでおどおどする自分は、サタンの思うままに塩をかけられ続けるナメクジの在り様でしかないだろう。神様が私を責めることなく与え続けて下さるように、そして御父様が我々にみ言を与え続け愛し続けて下さるように、ひたすら与え続け想い続け、信じ続けることで子の魂が満たされる時が来る。満たされて、親への想いと涙で溢れる時が必ず来る。離れれば離れるほどに愛おしくなる。愛くるしい幼少の面影が活き活きと自分の中に蘇る。抱きかかえていた時の肌のぬくもりが、乳臭い肌の感触が伝わってくる。

2009年1月8日木曜日

今日の想い 37

天国とは個性を完成した一人の人間のような世界である。人間に於いて、その頭脳の縦的命令により四肢五体が互いに横的な関係をもって活動するように、その社会も神からの縦的命令によって互いに横的な紐帯を結んで生活するようになっているのである。 (終末論より)
御父様の願いが本部に届き、本部の願い(方針)が各部署に届き、各部署の方針で店が動き、、、。御父母様との距離がありすぎて願われる数字と形は伝わるけれど、お父様の想いなり理想に対する熱いものはそのまま伝わっては来ない。伝言ゲームのように意味合いだけでも下々に伝わればいいほうだろう。今までのピラミッド組織体制がこれから通用するだろうか。日本の活動体制がカリスマ的責任者の存在により強力なピラミッドを築き上げ、細胞である兄弟の意識を中心者の色一色に染められ、正に中心者が四肢五体である我々の頭脳であって兄弟一人一人の頭脳は中心頭脳の神経系統の役割のみだ。日本民族の結束力が遺憾なく発揮された。アメリカに来てからも日本兄弟の在り様は、日本と同じようにピラミッドに溶け込んで歩んできた。それがいいとか悪いとかという思考を始めるられるのは、そのピラミッドから除外されてからのことで、溶け込んでいる以上有り得ない。他の兄弟からすればその組織が異常に映ったのも事実だろう。故郷帰還の話が御父様の口から発せられて、ピラミッドは崩れ始める。多くの兄弟で支えられていた現場から、ある時点でまとまった兄弟が抜け落ちていった。現場は相当な混乱を見せ、その影響は直接営業に響く。あの状況で店を続けることができたこと自体が奇跡と言っていい。本部に頼ろうとも何が出来る訳でもない。各現場に任せる以外方法はなかった。一ドル紙幣のように、ピラミッド上位三角部門からの乖離が始まる。ちょうど酒が血族集合魂からの独立を促したように、御父様の一言が組織結合としての上からの牽引力を融解させる。糸の切れた凧状態の店もあったのかも知れないが、本部べったりの在り様から否応無く各現場に権限が移された事で間違いなく居残った店は内的霊的に成長した。自由に采配することで、行動一つ一つに意義付けが出来た。訳も解らずやっていた頃とは雲泥の差がある。自我がしっかり肉体に根付いた今、再び神霊を求めていく人類理想があるように、独立店の立場で下界に築いてきた内外の叡智を、再び天に繋げる理想と願いを受け取っている。

組織の在り方 その二(ボトムから)

売上を上げろ。利益を出せ。経費は減らせ。上からの大号令に現場は辟易している。売上を上げられるものなら上げたい。利益を出せるものなら出したい。経費削減できるところがあればとっくにやっている。そんなことは解りきっている。それでも容赦なく突っつかれるものだから魂は萎縮してしまう。後天開闢時代の幕開けでありながら兄弟が特に開放されていない。魂が萎縮したままでそれでもプッシュされるままに行動しようと思ったら、機械的にならざるを得ない。兄弟達の多くはその状態なのではないだろうか。本部なり上に立つ者の立場で、実力に欠けるとかヤル気が無いと判断し責めたとしても、ある意味、ある期間、機械的に扱われてきたことも事実だろう。理想や夢まで否定することも含めて自己否定意識が徹底され、その状態では愛の衝動や感情さえも否定対象となりうる。愛の群れでありながらも、その実体は戦時中の捕虜のように、労働基準法どころか人間性さえ否定されたような扱いを受け、愛の無い激しい叱咤を本人は甘んじて受け周りの兄弟はうな垂れて口を閉ざす。今、そんな扱いを受ければ誰一人付いてくる者はいない。その場に本然の愛があるとは到底思えないし、上に立つ者であれ従うものであれ、愛が芽吹く事もない。しかしその期間が御父様の願いから外れた、当時の責任者を追及すべき暗黒時代であると言う事はできない。そういうある意味非社会人間的在り様の期間が摂理的に必要であったのだろうと私は思う。復帰歴史に於いて、特に旧約の期間に見るような、低級魂が指導者の強烈な脅し命令にただただ従いながら、僕の僕や僕の期間を通過したように摂理の為の基台摂理が必要であったのだと思う。その期間は本人が摂理が解っていようがいまいが、信仰が有ろうが無かろうが、ただただしがみ付いてでも御父様の息のかかった組織体に在籍すると言うだけで、天に繋がれた糸を切られる事は無かった。ある意味、動物魂に見るような集合魂の在り方に近い。一人一人に自我が備わっていない。しかし時代は明らかに変わっている。自我に光が照らされている。感情も意志も否定されていた立場で歩んでいた昏睡意識が役に立たなくなっている。ただ闇雲に付いてくれば良しとされた時代は去った。兄弟一人一人が目覚める時であり、訳の解らぬ儘に動く機械的な歩みを脱して、み旨として歩む事の意味を実感として受け取りながら、今まで眠っていた自我から来る所の、為に生きようとする意志を前面に押し出し、能動的行動によって内外に得るものを実感として受け取りながら、個人の在り様も組織の在り様も変革されていく。全体目的の為に献身することの意味と喜びを見出す、個性真理体としての自我を確立させる。

2009年1月7日水曜日

組織の在り方 その一(トップから)

我々の組織が御父母様の企業体であるという自覚があるなら、どういう企業体の在り方を御父母様は願われているのか。食品全般を扱いながら、国内のみならず世界的な展開を目指してはいるが、それは確かに御父様が喜ばれる事ではあるだろう。一生懸命親の為に頑張ろうとしているのを見て、喜ばない親はいない。ある責任者が御父様に(億万長者を復帰できるよう頑張ります。)と言った時どう応えられたかと言うと、(それもいいんだけどね、、、)と返事されたようだ。我々が目指している目標に関してもそのような答えが返って来るように思えてならない。御父様は本当に形の上だけでも世界に証ができ誇れるものを欲しておられるのか。或いは世界的展開をして売上の拡大、利益の拡大を願っておられるのか。どちらも形であり、即ち外的事柄に関するものだ。それが為された時天国は完成するのだろうか。自分が考えた時、確かに決して小さな目標では無いけれど、しかし御父様に取っては薄っぺらな事、天宙復帰の為の手段として見ておられるのではないのかと言う思いがしてならない。我々の目標、それはそれで目指すところであるというイメージは無くてはならないが、しかしそれは内的に実った時外的結果として必然的に現れるもので、本当の願いはもっと内的霊的事柄に関するもの、内的霊的基盤を願っておられるように思う。別の観点から言うとみことば伝道が爆発的に進み、多くの国がどんどん復帰されていく状況になった時、我々が目標としている外的事柄は意味をなすのか。世界を覆うには道半ばであるけれど、ここに御父様の真の愛の精神が宿っていると言えるものが見えるとき、我々は御父様の企業体に対する願いの本分に応え、証となり誇りとなると思う。決して形ばかりがでかくなり、内面を見れば堕落性でひしめき合う、或いは空っぽの張りぼて組織体で御父様が喜ばれるとはとても思えない。金融資本主義が立ち行かなくなった今、アメリカの投資銀行は既に破産状態にある。一時はある国のGDPを凌ぐほど世界を席巻する勢いがあったのに死に体の有様だ。物欲を掻き立て数字を果てしなく追っていった結果をしっかり注視し、そこから学ばなければならない。その企業体に為に生きる理念の欠片も見出せるだろうか。この世のビジネス全てが悪ではないし学ぶところはたくさんある。しかし私はあまりにもこの世的ビジネスの在り方に迎合しているように思う。為に生きる精神と真の愛に貫かれた本来的な天のビジネスとして、王道を求めていくべきだと思う。

2009年1月6日火曜日

リッチモンドの店

久しぶりにリッチモンドまで足を運んだ。二十数年営業を繋いできた店を売りに出していて、問い合わせのあった二人のバイヤーに紹介してきた。ひと時は今のセールスの倍は売り上げており、家賃を含む固定費が非常に少ない為、いい儲け頭だった。勿論半減した今となっては固定費も経費も高い。高すぎる。天の店という想いからすればどれ程金を積まれても人の手に渡すべきではない。預かる我々の実力のなさもさることながら、天に対する想いの欠如がこの結果なのだ。そう思えば本当に申し訳が無い。古びたレンガ造りの建物が並ぶ、ダウンタウンのマイナーな歴史名所で、夏場はそれなりに観光客を見かけることができる。通りは石畳で敷かれ、車を走らせれば砂利道を走る以上に乗り心地は悪い。しかし見るにはそれなりの趣があって、気持ちをその場に沈めれば馬車が往来する当時にタイムスリップする。しかし趣と言うと語弊があるが、決して明るいものではない。大航海時代に始まって17世紀辺りを過ぎると、世界的に船での往来が盛んだった。勿論様々な商品が往来するわけだが、ヒューマングッヅ、いわゆる奴隷も商品として輸出入されていた。その北アメリカでの一大拠点として、18,19世紀ヴァージニアエリア、特にリッチモンドは大きな商いが行われた場所だ。ふたブロックも東に足を運べば、オークションハウスがある。農産物のセリ場であるけれども奴隷もごく普通にセリ場に立たされていた。二世紀にまたがり、五十万人近くの売買が此の地でなされた。歴史名所ではあるけれど、決して誇りにできる歴史的内容ではない。大々的に宣伝できない影の部分である為、セリ場であるとか奴隷の船着場であるとか、逃げようとした奴隷の処刑場であるとかが、ひっそりと隠れるようにその場その場で紹介されている。開放的なアメリカには珍しく、重い霊界雲が町全体を覆っている。そう言う、いわば曰く付きの地で天の店として営業するとなると、商売云々以前の問題として霊的清算事項に関わらざるを得ないのだろう。一年前に食口のバイヤーであるけれど関心ある人が見つかって話が決まり、チェックまで切り終え、後は引き継いで渡すところまで行ったのだが、最後の最後で彼が理由の知れぬ強度の眩暈に襲われて床に就き、結局本人が弱気になって流れてしまった経緯がある。我々の主管に適わない背後があるのだと思う。それまでにも様々な問題が起こっている。自分の霊的弱さを鑑みれば、できれば避けたいところである。誰もお手上げ状態の此の店を、せめて処分する最後位は申し訳ない想いをその地に抱きつつ、取り合えず幕を下ろすことを許して頂けるよう祈った。何処からとも無く漂ってくるかび臭さに身を包まれながら、、、。

2009年1月5日月曜日

今日の想い 36

今現在の自分の在り様は、良くも悪くも今に至るまでの過去の結果としての自分だ。しかしその結果を持って終りなのではなく、一刻一刻と未来に向かい結果は更新され続ける。今の霊的内的在り様も、そして霊的内的なものの表れである外的在り様も、一刻一刻と変遷している。人間は正面を向き、前に向かって進むように身体は創られている。後ろ向きになって前進するように神は人を創造していない。身体がそのような在り様をしていると言う事は、霊的内的在り様もこの地上に於いては前進する在り方をしている。時は未来を指向して流れている。肉体を持ちこの地上で生きていく限り、時の波に逆らう事はできない。立ち止まり過去を振り向いても、時は流れていく。時が止まるのは肉体を脱いで死の門を超えた時だ。その時は否応無く、過去の歩みを振り返らされる。この地上に生きている以上、時が流れる事が、人間理想へ向かう自由を神が保障している。今現在の在り様がどの様であれ、一瞬一瞬の時を未来に繋いでもらう事により、等しく理想に向かう扉は開き続ける。人間として過去を振り向く事が出来るのは、明日を見つめ理想を目指す為の舵取りのデータの為であり、決して今の在り様という過去の結果を裁かれる為ではない。神は裁かないのにどうして自分が自分を裁く事が出来ようか。過去に執着し未来への新たな理想、修正された理想に向かう一歩を踏み出せないのは、お前は既に死んでいると囁き続けるサタンの常套手段である。神は必ず道を用意されている。一歩でも半歩でもにじり寄りでもいいから前進しようとする意志を持つ事で、その道の扉は開き続ける。理想への道を用意されている神を信じることが信仰の基台であり、理想に向かい一歩でも半歩でも前進しようとする意志を持つ事が、実体基台である。生きる事とは、良心に届く神の願いを与えられながら、その願いに紙一重づつ応えていく信仰基台と実体基台の積み重ねを言う。

2009年1月4日日曜日

酒 その二

酒の味を覚えた訳でもないので、献身してからは勿論手を付ける事はなかったが、それでも相対の家に訪ねた時など断りきれず一口二口、口にしたかも知れない。アメリカに来てからもそれはないが、ある兄弟が相対との問題で相当悩み、落ち込んだらしく、夜な夜なコップ酒を前にして崩れるように泣いていた。さすがに寄せ付けない磁気を帯びていて咎めるのも躊躇され、そっとして置いた。聖書を開けば最初に酒の話が出てくるのはノアが飲んだぶどう酒だ。ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていたと言う話だ。ギリシャのディオニュソス信仰にぶどう酒は大きく関わっているが、ノア以降酒が現れたのは摂理的意味がある。アルコール作用として、血に直接影響を与える事で霊界との関係から人間を断ち切り、人間を物質の中に組み入れる役割を果たす。当時はまだ自我が押しやられ、血族民族の集合魂に帰依していた。個人個人が神霊を宿す自我として個性真理体の在り様は為さず、民族魂の一部として、身体に例えるなら頭に仕える手足の在り方をそれぞれの人間はしていた。自分という意識を持ち得なかった。アルコール作用の働きは先ず霊界との分離、即ち集合魂からの分離の役割を果たした。自分と神との関係性を直接持ち得ない歪な霊界との繋がりを先ず断ち切る役割がアルコール作用に求められた。勿論、現代人のように自我を発達させてきた人間に取って霊界との関係を遮断するアルコールは、人間をより利己的在り様に貶める。今求められているのは自我を発達させてきた立場で、再び神的霊的力との結びつきを逆に見出すことだ。その意味に於いては酒は霊的成長を抑制する。飲酒禁止令は、食物エキスとして最高の酒を断つというひとつの条件的なもので、時が来れば呑む事も許されると考えるのは勝手な判断で、本来は霊人体の成長と大きく関わっている。

酒 その一

正月に酒は付きものだが、勿論、教会関係では御法度で、飲酒を許されてはいない。高校生の時に原理のみ言に触れ、教会に通うようになったけれど、高校生の時には酒もまた飲んでいた。と言うのは期末試験が終わったりすると打ち上げに集まって酒を飲む。高校生の飲酒は禁止というのは当たり前だが、どういう訳か呑んでいた。高校の友達はそれ程ワルでもないのだが、十数人集まって話に華を咲かせ、その場には酒が必ずあった。だんだんとエスカレートして焼酎やウイスキーまで仕入れてまわし呑むほどになっていたが、当時四畳半の部屋を借りて下宿していた私の所で盛り上がろうという話になり、友達皆押しかけ呑み始めた。酔いが回り始めてひとりふたりと潰れていく。その内、ひとり友達がいないことに意識のある者が気付いた。そう言えば便所に行くと言って部屋を出、階下に下りていった者がひとりいた。気分でも悪くなったのか誰か様子でも見て来いと話しているうちに、救急車のサイレンの音が近づいてきた。焦って皆で外に飛び出して見ると、既に数メートル先で抱きかかえられた友達が、点滅する光を浴びながら車内に搬入されていた。知り合いかと問われ素直に皆頷き、付き添うように促されひとり救急車に乗り込むと再びけたたましくサイレンを鳴らしながら飛んでいった。誰かの通報を受けたのか既に警察もその場にいた。事情徴収を一人一人受け、終わったら署まで連れて行かれるのかと思ったが、こっぴどく説教を喰らうと後から学校の方で沙汰があると念を押され、解散となった。その後の顛末はあまり覚えてないが、勿論親にも連絡が行き、頭を下げに田舎から繰り出す羽目になった。後で聞くとその友達は急性アルコール中毒で危なかったらしい。学校もさることながら、自分としては通い始めた教会にどう懺悔したらいいのか、その方が心配だった。破門にされたらどうしようとか色々悩みながら、一大決心で原研部長に報告した。本人は至って深刻なのだが(そんなことがあったの)で終りだった。どうすべきか尋ねると、気になるんだったら何か条件立てたらと薦められ40時間の断食を立てることでお許しを頂く事にした。

2009年1月1日木曜日

愛の霊化

今でこそ一日に二便もバスが通っているが、小学校に上がるまでは本当に外界から隔離されたような田舎だった。三代を遡れば、敢えてそうなのか、隣村までの往来が無く疎遠で仕方の無かった事なのか、とにかく縁戚関係の間での婚姻が多い。私が高校生の時亡くなり既に霊界の住人である父方の祖父母は従兄弟同士であったし、11人もいる父方の叔父叔母の多くは、遠い近いはあるけれど親戚同士の連れ合いだ。母方の方も叔母は本家に嫁いでいる。又いとこの関係になる。他の家系も似たり寄ったりで、うちの親戚だけが特別な訳でもない。親等間隔が近ければ問題があることも言われているが、親戚縁者を見る限りそれは見当たらない。勿論その問題は問題としてあるとは思うが、米作りが生活の支えであるから田植えや稲刈りの農繁期、家の普請、藁葺き屋根の葺き替え、冠婚葬祭、仏事慶事その他全般にかけて、家々の協力無くしてできることは一つも無い。生きる為の必然だったのだと思う。より血族で固めれば固めるほど、自ずと家々間の血縁意識は強くなる。古代に遡れば、非常に狭い範囲内で同じ血族同士の間でのみ、結婚が可能だった。次第に血族外での結婚もなされるようになってきたが、しかし他民族との結婚はありえない。特に人類史の初めには近親婚が固く守られていた。今で言うと人間と動物で交わるような感覚を他部族他民族に持っていた。血の結びつきと言う、非常に狭い範囲の愛は有り得たが、血族部族を超えれば人類皆兄弟などと言うような人間性溢れる感覚は持ち合わせていなかった。キリスト降臨を準備された当時ですらガリラヤ人(混血)と言われたように血の結びつきに拘束されない愛は異端視されていた。血縁意識という箍から開放され、狭量的な愛から霊化された愛、即ち人類愛への愛の革命がイエス様に拠ってもたらされて始めて、血の愛から霊化された今の在り様に近い愛に変わる。今の愛の在り様が完全ではなく、更に愛の霊化が、真の父母によりもたらされた真の愛により為されていく。交叉交体祝福結婚に関する御父様のみ言には、民族や嗜好にみる感覚と結びついた低次元の愛から神様からくる本来の真の愛、霊的なものに高まる愛への理想を見ることができる。今でこそ過疎地域と言うにも恥ずかしいほどに崩れかけた空き家ばかりで、老人ですらたまに見かけるような状況だが、当時は少ないながらも血族意識がしっかりと根を下ろし、外界から何も寄せ付けない集合魂の在り様が見て取れた。そんな田舎ですら自分を含めて三人が立っている。当人達は飛び出しているので何を言われようと構わないが、親への視線や風当たりは相当なもので、本人が苦労している以上に親が苦労している。翻弄され混乱の嵐を通過しながらも真の愛との関係性を村社会という集合魂に植え付け、愛の霊化は始まっていた。

み言に対する姿勢 2

一つの重要な点を言えば、キリストが肉体を纏いこの地上に存在したのは、イエス様の生涯の20年にも満たない期間であり、直接的に触れることができた人もごく少数に限られる。物理的なことを言えば極々限られた横的範囲、縦的期間のことでしかない。ではその開かれた愛、霊化された愛として地上にもたらせれたものを、どういう形で更なる横的展開、縦的時間を旅させて地球を覆うことができるか。それを為しえるのが言葉なのだ。言葉に愛を乗せたと言うより、愛を言葉にしたもの、即ち生きたキリストが言葉に身体を変えて、海を越え時を越えて人類にもたらされた。だから新約聖書の言葉はキリストそのものであるとも言える。弟子が表したのはその通りだが、弟子の手を通してキリスト自身がキリスト自身としての言葉を表した、いや現した。キリストとしてのみ言を受け入れる事に聖霊が関わり、新しい自我が生まれる新生が為された。御父様のみ言を追いながら、言葉になった御父様自身を受け取っているという認識まで高めて始めて、み言に接したと言う事ができる。その内容を理解するとかしないとかと言う、その辺りの本に書かれたものに目を通すのと根本的に違う。み言は理解するものではなく、御父様自身の在り様として受け取る。み言に触れるとき、御父様の心情が、理想への熱い想いが胸の内に湧き上がることで自分のみ言に触れる態度が正しいがどうかを見ることができる。