2009年1月1日木曜日

愛の霊化

今でこそ一日に二便もバスが通っているが、小学校に上がるまでは本当に外界から隔離されたような田舎だった。三代を遡れば、敢えてそうなのか、隣村までの往来が無く疎遠で仕方の無かった事なのか、とにかく縁戚関係の間での婚姻が多い。私が高校生の時亡くなり既に霊界の住人である父方の祖父母は従兄弟同士であったし、11人もいる父方の叔父叔母の多くは、遠い近いはあるけれど親戚同士の連れ合いだ。母方の方も叔母は本家に嫁いでいる。又いとこの関係になる。他の家系も似たり寄ったりで、うちの親戚だけが特別な訳でもない。親等間隔が近ければ問題があることも言われているが、親戚縁者を見る限りそれは見当たらない。勿論その問題は問題としてあるとは思うが、米作りが生活の支えであるから田植えや稲刈りの農繁期、家の普請、藁葺き屋根の葺き替え、冠婚葬祭、仏事慶事その他全般にかけて、家々の協力無くしてできることは一つも無い。生きる為の必然だったのだと思う。より血族で固めれば固めるほど、自ずと家々間の血縁意識は強くなる。古代に遡れば、非常に狭い範囲内で同じ血族同士の間でのみ、結婚が可能だった。次第に血族外での結婚もなされるようになってきたが、しかし他民族との結婚はありえない。特に人類史の初めには近親婚が固く守られていた。今で言うと人間と動物で交わるような感覚を他部族他民族に持っていた。血の結びつきと言う、非常に狭い範囲の愛は有り得たが、血族部族を超えれば人類皆兄弟などと言うような人間性溢れる感覚は持ち合わせていなかった。キリスト降臨を準備された当時ですらガリラヤ人(混血)と言われたように血の結びつきに拘束されない愛は異端視されていた。血縁意識という箍から開放され、狭量的な愛から霊化された愛、即ち人類愛への愛の革命がイエス様に拠ってもたらされて始めて、血の愛から霊化された今の在り様に近い愛に変わる。今の愛の在り様が完全ではなく、更に愛の霊化が、真の父母によりもたらされた真の愛により為されていく。交叉交体祝福結婚に関する御父様のみ言には、民族や嗜好にみる感覚と結びついた低次元の愛から神様からくる本来の真の愛、霊的なものに高まる愛への理想を見ることができる。今でこそ過疎地域と言うにも恥ずかしいほどに崩れかけた空き家ばかりで、老人ですらたまに見かけるような状況だが、当時は少ないながらも血族意識がしっかりと根を下ろし、外界から何も寄せ付けない集合魂の在り様が見て取れた。そんな田舎ですら自分を含めて三人が立っている。当人達は飛び出しているので何を言われようと構わないが、親への視線や風当たりは相当なもので、本人が苦労している以上に親が苦労している。翻弄され混乱の嵐を通過しながらも真の愛との関係性を村社会という集合魂に植え付け、愛の霊化は始まっていた。

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