2009年1月24日土曜日

今日の想い 44

イエスは声高く叫んで、ついに息をひきとられた。そのとき、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。イエスにむかって立っていた百卒長は、このようにして息をひきとられたのを見て言った、まことに、この人は神の子であった。(マルコ15章)
イエス様が十字架にかかられて始めて、心ある者達はまさしくこの御方がその方であったと感情に於いて納得できたように、真の御父母様を感情に於いて納得できる時がくる。その時、兄弟達もそれまでの認識がどれほど拙い薄っぺらなものであったかを悟る。その時こそ呆然とするのだ。地を叩いて悔いるのだ。過去に遡ってやり直しの利かない事を歯軋りしながら恨む。日中であるのに太陽存在が陰って暗くなり、雷鳴と共に天が割け地が割ける。地震で引き裂かれた大地の割れ目にイエス様の身体は沈んで行った。地の底に引き擦り込まれた肉体が表すように、イエス様は地獄の底に引きずり込まれながら先ずそこで勝ち取るものがある。肉体をサタンの生贄として捧げ、霊の勝利を神に返そうとされた。キリスト存在として肉体をまとってこの地上に来られた意味は、肉体をもってしてしか為しえないものがあったからだ。決して十字架が神の計画でもなければ本人の希望でもない。それは真の夫婦になることであり真の家庭を供える為であった。真の夫婦となり真の家庭をなし真の父母となるその理想と希望こそ肉体をまとった意味だ。しかしその愛の理想と希望の一切合切をサタンにくれてやり、完全失望と言う真っ暗な地獄に於いて、全き犠牲をはらうことで絶対愛の光を創造された。地獄で創造された愛の光こそ地上に救いをもたらす大きな足がかりとなった。復活されて弟子達に愛の勝利を伝え授けて回られた。子供のように興奮され、はしゃがんばかりの勝利の凱旋だった。そこには十字架への恨み、サタンに組した人類に対する恨みのひとかけらも無い。我々はまだ尊い犠牲の意味は解っていない。陰りの全く無い魂を受け取って共感できる者となりえていない。そういった感覚だけでもわかれば、自分の在り様が恥かしさの極致にあることがわかり、居た堪れない。その目覚めを御父母様に対して遠からず経験する。今出来る事は、あらん限りの思考力を駆使して、み言に没頭しみ言とひとつになり、あらん限りの感情力を駆使して、祈り、御父様の高次の心情を尋ね、あらん限りの意志力を駆使して、身悶えしながらサタンに仕えるこの肉体肉心を凌駕する。それがどれほど困難を極めようとも、とにかく立ち向かう事だ。転んでも転んでも立ち向かう事だ。

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