2009年1月1日木曜日

み言に対する姿勢 2

一つの重要な点を言えば、キリストが肉体を纏いこの地上に存在したのは、イエス様の生涯の20年にも満たない期間であり、直接的に触れることができた人もごく少数に限られる。物理的なことを言えば極々限られた横的範囲、縦的期間のことでしかない。ではその開かれた愛、霊化された愛として地上にもたらせれたものを、どういう形で更なる横的展開、縦的時間を旅させて地球を覆うことができるか。それを為しえるのが言葉なのだ。言葉に愛を乗せたと言うより、愛を言葉にしたもの、即ち生きたキリストが言葉に身体を変えて、海を越え時を越えて人類にもたらされた。だから新約聖書の言葉はキリストそのものであるとも言える。弟子が表したのはその通りだが、弟子の手を通してキリスト自身がキリスト自身としての言葉を表した、いや現した。キリストとしてのみ言を受け入れる事に聖霊が関わり、新しい自我が生まれる新生が為された。御父様のみ言を追いながら、言葉になった御父様自身を受け取っているという認識まで高めて始めて、み言に接したと言う事ができる。その内容を理解するとかしないとかと言う、その辺りの本に書かれたものに目を通すのと根本的に違う。み言は理解するものではなく、御父様自身の在り様として受け取る。み言に触れるとき、御父様の心情が、理想への熱い想いが胸の内に湧き上がることで自分のみ言に触れる態度が正しいがどうかを見ることができる。

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