2009年1月15日木曜日

今日の想い 40

人類は霊的領域から地上界へ降りてきた存在だ。物質で形作られた肉体という棲みかを頂いて、息のある期間、地球という神様の身体の中で生かされている。何一つとして自分の所有物はない。全てが借り物であり、ありがたく使わせて頂きながら自分が出来る事で貢献させて頂いている。御父様ですら水一滴でも大切にされ、何ら所有されるものも無く歩んでおられるように、我々も所有観念を持つべきではない。裸で生まれたどころか肉体すら借り物であるのに、あれもこれも自分のものだと言い張るのは神様に取ってみれば泥棒根性でしかない。キリスト神秘主義者はキリストは地(地球)の霊であり、地(地球)がキリストの身体であるとする。いつしかキリストの身体が財産の対象となり売買の対象にされた。神様自身の身体でありながら、サタンを親とする堕落人間はそれぞれ勝手に線引きをして自分の持ち物だ身体だと言い張る。全ての地が堕落人間によって唾を付けられ切り取られ、神様はサタンに全ての身体を奪われてしまった格好だ。さしずめ手を付けられなかったのが海洋圏でありそして大気圏である。だから御父様は多くの時を海上に持たれた。サタンが所有権を言い張らない海上で時を過ごされ魚釣りをすることで復帰に関する摂理的霊的重要事項を行使された。地を取り巻く空気や風と、海を循環する水だけは人類の固有財産対象として区別されず、神様のものとなれるよう手を付けられずにいた。大気や海は、いつか実現される地球を取り巻く真の愛の、目に見える物質的対象なのだ。御父様が前々から兄弟に対して所有、特に家などの不動産の所有を願われない事についてよくよく考えて見る必要がある。自分名義のものがあるかどうかが問題なのではなく、それに対する所有観念があるかないかが問題なのである。多くの兄弟は自分名義の家を所有している。自分はこの年になりながら財産と言う類のものはない。自分名義の家でも持ったなら、自分は恐らく所有観念を払拭できず悶々としただろうからいつまでもアパート住まいであることを感謝している。しかし自分名義でありながら所有観念を捨てきった者ほどの能動的強さとしての公的意識を勝ち取った立場ではないので、褒められるものでも何でもない。

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