2009年1月31日土曜日

愛すべき中心

随分温和になられた、と言う印象が責任者に対してある。相も変わらず怒鳴り散らすのは昔のままだが、その洗礼を受け取る者の中に、余裕がある。怒鳴られて変われるほどに、受け取るものを吸収出来る瑞々しい魂とは成り得ていない。時を経るほどに魂は侵入するものに対してしっかりガードすることを心得る。怒られる当人も周りもスコールの過ぎ去るのを視線を外し心を部屋の外に非難させて待っている。収まると何事も無かったかの様に頭をもたげ、粛々と会議は続けられる。人数が少ないだけに流石に今回は己が未熟を指摘された。こちらとしてはみ旨を歩んできた殆どを、その責任者の顔を見ながら今に至ったので、直球で受け取ることに何のわだかまりも無いのだが、向こうにしてみれば傷つき具合を慮っているのか随分遠まわしな口ぶりで何ともこそばゆい気持ちだった。信仰生活だみ旨だと言っても、外的表面的に見ればヤクザみたいなものだろう。信仰的言葉が行き来してはいるが、受け取る側は命令を下す為の脅し文句ぐらいの認識しかない。しかしその動機は御父母様にあるし、愛と信頼にあることはよくよく理解している。日本食口であるなら多くの者は先輩とし上司として仕えてきた。み旨を語り信仰路程を語るに、良くも悪くもこの責任者を外しては在りえない。摂理の為の摂理、摂理基台作りが長かった為、未だにその影響が責任者にも組織にも、そして我々にもある。面と向かえば先ず気持ちよく打たれようと覚悟する意志を用意させられる。しかし耳痛い事はそう容易く受ける事はできない。出る釘は打たれるではないけれど、何か行動に取り掛かることで打たれる要因は出てくる。何も行動しようとしなければ打たれるものは見出せない。打たれる事が怖くて、下手に行動に手を付け苦労する事が嫌で、今の安全圏から出ようとはしなければ、それはサタンも手を付けない代わりに神も関心を持たない。要するに摂理とは無縁の存在として自己擁護に埋没している。ひとたび護りの姿勢に入ると中々抜け出せないものだ。責任者とすれば内的霊的見地に立ち、兄弟の魂の成長や霊的生命のことを考えれば怒鳴り散らしてでも当人を揺り動かし目覚めさせたいのだろう。憎まれ口や陰口を言われながらも我々の為に良かれと孤軍奮闘される。苛めることでこそ自分の役割が果たせると思っておられる。

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