2009年1月4日日曜日

酒 その二

酒の味を覚えた訳でもないので、献身してからは勿論手を付ける事はなかったが、それでも相対の家に訪ねた時など断りきれず一口二口、口にしたかも知れない。アメリカに来てからもそれはないが、ある兄弟が相対との問題で相当悩み、落ち込んだらしく、夜な夜なコップ酒を前にして崩れるように泣いていた。さすがに寄せ付けない磁気を帯びていて咎めるのも躊躇され、そっとして置いた。聖書を開けば最初に酒の話が出てくるのはノアが飲んだぶどう酒だ。ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていたと言う話だ。ギリシャのディオニュソス信仰にぶどう酒は大きく関わっているが、ノア以降酒が現れたのは摂理的意味がある。アルコール作用として、血に直接影響を与える事で霊界との関係から人間を断ち切り、人間を物質の中に組み入れる役割を果たす。当時はまだ自我が押しやられ、血族民族の集合魂に帰依していた。個人個人が神霊を宿す自我として個性真理体の在り様は為さず、民族魂の一部として、身体に例えるなら頭に仕える手足の在り方をそれぞれの人間はしていた。自分という意識を持ち得なかった。アルコール作用の働きは先ず霊界との分離、即ち集合魂からの分離の役割を果たした。自分と神との関係性を直接持ち得ない歪な霊界との繋がりを先ず断ち切る役割がアルコール作用に求められた。勿論、現代人のように自我を発達させてきた人間に取って霊界との関係を遮断するアルコールは、人間をより利己的在り様に貶める。今求められているのは自我を発達させてきた立場で、再び神的霊的力との結びつきを逆に見出すことだ。その意味に於いては酒は霊的成長を抑制する。飲酒禁止令は、食物エキスとして最高の酒を断つというひとつの条件的なもので、時が来れば呑む事も許されると考えるのは勝手な判断で、本来は霊人体の成長と大きく関わっている。

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