2009年1月22日木曜日

思い出

母の野良仕事について行った、その帰りだった。朝から雨雲が空に渡り、取り合えずは出かけたものの、田んぼに足を入れると直ぐにポツリと来た。母が物憂げに灰色の空を暫く眺めると、畦に座って見ていた息子に納屋に入るよう促した。足の泥を洗い落とすと帰り支度を始めたが、思ったほど雨脚は強くない。しかし一端田んぼから引き上げると面倒になったのか切り上げる事にしたようだ。小雨模様の中を息子の手を引いて帰途についた。いつもは裏山の祖父がつけた道を登って帰るのだがその日は違っていた。帰りに何処かに寄り道しようと決めていたようだ。田んぼの輪郭に沿って畦道を暫く歩くと山あいの小道に入っていった。足にかかる草の丈が高くなる。膝の方までかかる濡れ草が紺のズボンを湿らせる。母はその間一言も口にしない。子供心に不安になった。母が、握っていた手を一瞬力を込めて引くと小道をそれ、笹が生い茂る急斜面を駆け上っていった。その勢いについて行けず繋いでいた手が離れる。母の咄嗟の行動を恨めしく思いながら、大人にすれば五、六歩ほどの斜面を後を追ってのぼった。母の姿を確認しようとする眼前にはなだらかな斜面が広がり、思いもしなかった光景が飛び込んできた。ちょうどその区域だけが選ばれたように、笹や木々がその周りを囲って生い茂り護っている。目を凝らすと霧の中からひとつふたつと浮き出てくるものがある。霧の中に滲みながらもその輪郭を現してくると、まばらに高い背を伸ばしてひとり咲いていたり或いは群れていたり、思い思いの在り様で佇んでいるものがある。小雨に煙る斜面にはゆりが群生していた。ゆりの花言葉の如く、誰にも知られず天界から降りてきた天女の化身のように純潔を護り、私にその存在を知れたのを悔いているようで、細い身を微動だにせず佇んでいる。一瞬躊躇はしたものの、母を捜しに自分の背丈ほどもあるゆりの中に入っていった。かぐわしい花々は清楚な香りを隠し切れず、足を進める毎に乙女に触れてしまうような感触をその香りの中で覚える。たじろぎながらも心地よさに身を任せていると、母が突然現れた。四、五本のゆりの花を手にしていた。そして焦るように自分の手を引くと、その異次元を後にした。暫く経って、物心ついた私は何度か母にその事を尋ねたが、母は覚えていないしそんな場所は知らないと言う。本当に覚えてないらしい。夢だったのか想像だったのか幾度も自分に尋ねてみたが、しかし自分ははっきりと覚えている。手折ったゆりの花を一本渡されて、呵責の思いで大事そうに抱えながら、ビクを背負った母の後を付いて帰ったことをはっきりと覚えている。家の田んぼから歩ける距離だったので探しても見たが、未だに見つからない。純真な魂を備えることが出来た時、それは再び姿を現し見つけることが出来るのだろう。

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