2009年10月7日水曜日
今日の想い 107
愛という言葉が巷で氾濫し、好きなように使われているけれど、それは偽りの愛のことを指すのであって真の愛とは違う。偽りの愛は感覚のみが好む、愛と名付けた偽物。見るに美しく触れるに柔らかく、聞くに心地よく嗅ぐに芳しい。真の愛にも勿論、感覚的に満たされるものも含まれているだろう。しかしそれは愛を与えた結果として受け取るもので、感覚的要求に即座に応えるものとは違う。肉的感覚を満たそうとする意志に応えるものは偽りの愛であり、他の為を思わず自己の為にという動機に関与している。自分という存在が他の為に生きる動機をもって人生を歩むなら、真の愛が係わり真の愛で霊なる体も培われるだろう。しかし逆に自己の要求を満たしたいという動機で全ての地上生活が為されるなら、偽りの愛が係わり偽りの愛は霊なる体を蝕むばかりで霊界を生きる力は育めない。堕落の血筋によって堕落的衝動が私の血に流れている。肉的感覚を満たそうとする衝動が私の血に息づいている。悪魔的その衝動が熱を帯び、沸々と湧き溢れ、この表情からこの肉体から偽りの愛を引き付ける吸着物を滲ませ発散させる。それが堕落人間の偽らざる姿なのだ。肉的感覚を満たしたい一心で生を繋ぐ。それが空しいことで真の愛を魂の奥で求めているにも拘らず、それを無視して生きている。魂の奥にある真の愛に生きようとする存在こそ本当の自分なのだ。その本当の自分が偽りの自分に魂の奥底に追い遣られている。堕落性という偽りの本性がさも私と言う存在の在り様なのだと言い聞かせている霊的存在を見なければならない。あらゆる自己中心の思い、感情、衝動に背後に操る霊的存在を診なければならない。見るに美しく触れるに柔らかい艶やかな皮膚に覆われたその下に、蛆虫の様にうごめくどす黒い代物を見なければならない。聞くに心地よく嗅ぐに芳しいヒューマニズムの理想を奏でる旋律に、肉的感覚の奴隷となる快楽文化の結末として、屍が累々と重なる様を見なければならない。見たくなくても見ざるを得ない御父様は、我々と同じ体でこの世という地上地獄に降りられて、地獄の撤廃活動を為されている。久々にワシントンに来られた御父様の十時間に及ぶ訓読会は強い語気を吐かれながら、御父母様の留守の間に寄り付き跋扈する悪なる霊存在を蹴散らしておられた。
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