2009年10月22日木曜日

95号線を走りながら

朝まだ暗いうちに家を出て北上する。環状線から北へ伸びる95号線に差し掛かった頃、東の空がやっと白み始めた。なだらかな起伏が延々と続くこの広い道路に、さして大きく視界をさえぎるものはない。運転しながらも空の変化は逐次観察できる。町の中に埋もれたままで朝を迎えそのまま一日を送れば、この宇宙の只中に存在しているという実感を覚えることは無いだろう。宇宙と自分とを当たり前のように別物に捉えている。宗教的感情を育てれば感覚的知覚を超えたところで宇宙の中に溶け込む自分を認識できるだろうし、内面を掘り下げていけば自分は宇宙全体にまで拡大していく。視覚は前方を捉えハンドルを握りながらも、視覚の周囲から大きく入り込む天空に意識を持って行き内面に映し出す。湧いては去っていく数千の思いを秋の空の青に変えて行き、秋の空の青のみで内面を満たす。瞑想しながら魂の波を鎮める時は忍耐のいる作業が必要だけれど、秋の空の青に集中できれば青は沈静の働きをしてくれる。肉体に流れる感覚的熱情に対し、先の見えない暗黒の闇が迫る不安と恐怖の感情に対し、指し当たっての問題の解決策が見出せない歯がゆさに対し、鎮静剤としての役割を果たしてくれる。神様に委ねるしかないという結論の言葉は既にあるけれど、委ねるモードになる為の魂の糸口を探している。空の青は神秘の表象。青に映るその向こう側にありとあらゆる霊的本性があり、神様と神様の使いからもたらされる溢れる叡智が大海の如く波打っている。真の父母の勝利圏を相続した自分であれば、それを受け取り使うことは許されているだろう。絶対信仰、絶対服従、絶対愛の基準とひとつになった自分であることが、青に映る存在の本質へ入るベールを潜れるのだろう。御父様が語られる数理の秘密に隠された本質的内容を、おぼろげにさえも捉えることが出来ていない自分は、願われる基準から程遠い者であることを認識しながら、それを落胆としてではなく謙虚さとして認識すれば一歩を踏み出すことができる。

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