2009年10月19日月曜日

コディアックのサケに想う

数年前の八定式にアラスカに手伝いに行った事がある。魚との付き合いは長いので今まで食材としてのサケは飽きるほど見てはきたが、ノースガーデンに於いて食当の為に殆ど外に出ることはなかったし、川を遡るサケの群れがどんなものか想像もつかなかった。数日が経って御父母様もコディアックを後にされ残った修練生も少なくなった為、食当も時間の余裕が出来てサケでも釣りに行ったらと言うことになった。遠目に見れば普通の川だが近くに寄って幾らか目を凝らせば、川の流れというよりサケの流れと言えるほど、川上から川下までサケで埋め尽くされている。圧巻だった。母線回帰の習性を持つサケは長旅を経て、やっとの思いで生まれ故郷の川に辿り着く。それからは犠牲を絵に描いたようなプロセスを通過していくのだ。遡上の過程でパートナーを見つけるとツガイのまま更に浅瀬を遡っていく。障害物や川底の石で鱗をはがし身を削りながら、餌も口にせずひたすら遡っていく。目的地に着くと最後の力を振り絞って産卵し、雄は放精する。産卵を終えたサケはその場で十日を待たず死んで行く。熊や他の生物の餌になることで回りまわって孵化する稚魚の餌になる。川を遡上するサケの群れを目にしながら、御父母様を迎えてみ言を待つ兄弟姉妹が、イーストガーデンやベルベディアの一室に足の踏み場も無いほどに詰め寄った光景を見るようだった。人間性が剥奪されたようなその場にうずくまる自分は、決して外的には快くは思えないが、外的な状況に反比例するように内的霊的な宝がその場にあることを知っている。御父母様がサケの一生をビデオで御覧になられながら、統一の群れの歩みと重複して見ておられたはずだ。傍目には余りにも切ないサケの最終章も、本質に目を遣ることで為に生きることの尊さを眩しいほどに受け取る我々でなければならないだろう。魚ですら父母と先祖は子孫のために犠牲となるのが当然の原則としてありながら、人間が父母としてそれが出来ずにいるとするなら、動物以下の存在だと言われても仕方がない。この身が朽ち果てる最後の最後まで、為に生きることのできる対象を探し回り、死の寸前にあっても為に生きる自分でありたいとの想いを熱くし、為に生きることに飢えて渇望してこそ、サケの種族を超える統一の群れとなることができる。

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