2009年10月16日金曜日

今日の想い 109

家庭として一つになり得たとは思わない。しかし一つになる途上にあると思っていた。夫婦の間に真の夫婦の愛が関与され、子に対し真の親の愛で接し、必ず子供も真の愛を受け取ってきたことを自覚するだろうと思っていた。時として影を潜めて沈殿していた堕落の本性が活動する。未だサタンの影響下から脱しない現実を突きつけられる。この世的な絵に描いたような家庭のイメージを捨てきれず、表面的な笑顔と表面的な労わりを夫婦の在り様、家庭の在り様と思うなら、そこにどう真の父母から受け取ったものが関与できるだろう。どうやって神様への想いがその関係性に生じ満たされていくのだろう。ぶつかる事を善しとせず、言葉と行動のひとつひとつに鋭いものが含まれるのを毛嫌いし、細心の注意を関係性の中に注入していくなら、それを裁きとは言えないだろうか。それが御父母様が見本として我々に示された真の夫婦の在り様だろうか。ぶつかっていいと思う。いやぶつかるべきだと思う。魂の合体、魂の一体化こそ夫婦の真の在り様であるなら、お互いの魂の中に土足で入り込んでも善しとされる開け放たれた心の門が、第一の門、第二の門、魂の奥の奥の本質まで到る全ての門が開門されるべきだろう。お互いの堕落の本性を見て見ぬ振りを装うのでなく、魂のがん細胞である堕落の本性にメスを入れてくれと正面切って対峙し、傷口をえぐって相手が入り込むのを痛みを覚えながらも善しとする、その気概が必要だろう。堕落の本性で神様に起因する真の本性が隅に追い遣られ、息たえだえのその状態にあるのを救助しなければならない。救われることの意味がそれであり、この肉への思いを捨て切ってこそ救助し生かすことが出来る道がある。生かされた真の本性同士の一体化こそ夫婦の本質であると認識し、本性と本性が交わる事で真の夫婦という真の愛の花が咲くだろう。真の愛の実として子供は実っていくだろう。開放釈放時代に突入すれば自分も自分の家庭もそのまま解放釈放圏に入って行くのだろうと、あまりにも安易な態度でいたことが恥かしくもあり愚かにも思える。遥か彼方に聳える御父母様を、間近に迎える日をひたすら慕いながら、泥沼の一歩を踏み出していく。

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