2009年10月11日日曜日
今日の想い 108
送られてきた血液検査の数値を妻は暫く見つめた後で、上がった、とポツリと口にした。血液中の疲労物質を表すクレアチニンの値が上がっているらしい。その意味は腎臓機能の低下だ。月に二回は検査していて、今までの値も決して低いものではなかったが、急に跳ね上がった数値を見つめる表情に落胆の色が濃い。見たくは無い新たな暗雲を予想している。いつも現実は否応なく、そして何の遠慮もなく突きつけられる。そう遠くない過去に魂を削り取られる痛みの経験を呑まされた、あの生きるのさえも諦めたいほどの全身全霊の疲労困憊を、忘れる時間さえ与えられずに又次の責めが始まるのかと案ずると、それだけで全身の力が抜け落ちる。こういう時に、神様がついていると言う言葉が思い浮かんだところで、それが何の力にも慰めにもならないだろう。事実神様は目の前の現実を容赦なく押し付け、この苦杯を受け取ることを強要されているかのようだ。嫌だと言って逃れられるものとは違う。受け入れることが服従であれば、有無を言わさぬ絶対服従だ。絶対の基準を立てることができない者は、無理にでも絶対服従させられるしかない。本人に取っても傍らの者に取ってもそれが病というものだろう。妻には生の執着がある。恐らく私よりは遥かに強い執着がある。生きて何をするかを主題に置かず、生きること自体を自分の主題に置いている。それが正しいとか正しくないとかを説明する状況に今の彼女は立ってはいない。病気と言う現実が得体の知れぬ化け物として襲い掛かっている。化け物を忌み嫌い、取り除くことのみ躍起になって感情衝動が掻き立てられる。傍らに或る自分は、ひたすら見守るしかない。見守ることしかできない責め苦を味わう。極めてこの世的で、この世的な幸せ像を手放すことができず、それが健康的な生活であったり一戸建てのマイホームであったりと、そんな形に収まることが幸せの条件であり神様の祝福であるとの認識から抜け切れないなら、それがどれ程味気なくむなしいものか気付くことはないだろう。傍目にどれほど悲惨な人生であっても、地上的責め苦を切れ目なく味わい続けるとしても、それ故に自分は内的霊的高みに飛翔することができると、受け取る苦悩を味わいながらもこの事をして為に生きる生を生きることができると、忌み嫌う苦悩を甘受しなだめる苦悩に変え、新たな行為への衝動に転化する内的意志を供える時、人間の魂は何倍にも大きくなる。甘受できる器があると踏んで、受け取る苦悩であるなら、その大きさに合わせて神様の信頼を得ていると言う事になるだろう。
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