2009年10月19日月曜日

民族意識、民族感情

電話をよこしてよく話すひとりの兄弟がいる。同じ頃にアメリカ人事を言い渡され、お互いこの地に歩んで四半世紀に及ぶ。よくも話す事柄に事欠かないものだと、感心もし呆れもする。故国を離れて歩めば、誰もが故国に繋がれている宿命の糸を覚えずにはおれないだろう。年を重ねる事でそうなるとも言えるけれど、今更にして故国の事を我が事の様に感じる自分がいる。自分のことを知りたいと思うように故国日本のことへの関心が強まり、過去の歴史を検証もし今の在り様を憂えてもみる。彼から電話が入る度に、あいも変わらず日本人を生きているなあと想う。真珠湾攻撃の開戦前夜に何かの陰謀がない限り、開戦通告が遅れることでパールハーバーの奇襲として今の今まで卑怯者呼ばわりに甘んじなければならない歴史の汚点は払拭されたはずだと言う。そこに端を発して自国を愛さないどころか認めようともしない自虐国家日本が現状としてある。恐らくその通りかも知れない。その通りであるけれど、それを声高に自分の内面に響かせ、事或る毎に口にするのも決して利口だとは思えない。プロセスがどうであれ、第二次世界大戦に於いてサタン側日本として参戦した以上、なるべくしてなった結果と言える。ましてや非難しようとするアメリカに、勿論人事という直接的意志ではないにしても、この地に居を構えこの地で商売をしているのは事実だ。全てではないにしてもアメリカによって生かされている面も多大にある。故国を愛するのは善しとしても、それなりに食わせてもらっているこの地を、復帰しようとしているこの地を非難する意識が働くのなら、み旨の願いとは方向性は違ってくる。彼の話を聞きながら彼の店に軍歌でも流れ、日章旗でも掲げられているような愛国の意識があるなら、店に足を運んで喜んで食事をしているお客に、愛の心情で接っしていると断言できるだろうか。御父様が既に話されているように、我々は韓国人でも日本人でもアメリカ人でもない。韓国にいる食口であり日本にいる食口であり、アメリカにいる食口なのだ。今と言う位置から過去を見る時は日本民族としての歩みが当然あり、日本民族として受け取ってきた負の財産を清算すべきも事実であるが、今と言う位置から未来に顔を向けることが生きることの意味合いだと想うのであれば(私はそう確信しているが)、それぞれの国や民族に対する事柄に関しては世界人としての立場から、自分の意識や認識や関心事が正しく世界平和へと続くものなのかどうかを見なければならない。

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