2009年10月7日水曜日

み言に対する姿勢

み言から受け取るものを生活体験以上に実感する者となる。み言に生きる自分を実感してこそみ言がみ言として受け取られたのだと言える。入教した当時、勤労青年達が共同生活をしながら信仰生活をなす青年部という部署に配属され、その宿舎から通いで仕事をしている兄弟姉妹達と寝起きを共にしていた。部長の位置にあった信仰の先輩は、他の部署の責任者に勝るとも劣らず、強烈な個性を備えた人だった。今思うと、私の前に立てられた色々な中心者から御父様の雰囲気を感じ取れたかと言うと、意外とそうでもなかったように思う。しかし当時の兄弟達にとっては明らかにカリスマ性に似たものを中心者に見ていたはずだ。み言から受け取るものではなく、その中心者から受け取る熱の波動を信仰の力としていた時期があった。その当時の内的在り様や雰囲気そのままに、今の時代を強引にも押し通そうとする責任者や、虫けらのような内的扱いを当然のこととして受け入れてきた事で、罪人の様に頭を落とし前進する力を未だに見出せない兄弟がいるように、新しい時代圏に於いて飛躍的次元上昇の過程に乗る事が出来ずに、取り残されようとする者になってはいないだろうか。訓読会の御父様のみ言に集中し、没頭すれば、目新しい言葉や内容が幾らでも飛び出してくる。もはや数年前の原理用語だけをひたすら理解しようとしていた悟性では、理解はおろかついて行く事さえもできない。八定式からの目まぐるしい摂理展開やありとあらゆる儀式や宣布、それに伴うみ言も堕落人間の概念や思考では雲を掴むような抽象的事柄として、曖昧に受け取ることしか出来ない。御父様に何処までも何処までもついて行こうと思うなら、お父様に完全に帰依しなければならないし、完全に帰依する為には御父様が語られるみ言を理解しなければならない。もはや知的悟性で理解できる範疇は超えている。み言は頭で理解するものではない。み言にある宇宙の秘密を知ろうと思えば、もっと集中した態度で自分の全てを感覚器官とし、心魂を霊界領域に踏み込ませてみ言の霊を受け取るのでなければ、数字の秘密を初めとする全てのみ言はその世界を開示することはない。

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