2011年1月31日月曜日

今日の想い 254

私には確かに驕りがあった。立派な家庭を築き、立派な子供に育てられるという驕りがあった。この驕りが、喰い込んで抜けない釣り針のように、家庭のなかで膿み子供の魂に影響を与えている。私の何が、そんないわれもない驕りをもたらしたのか。驕りだと気付いていなかったから驕りであって、それは祝福家庭だからという一言が何かおまじないでもあるかのように私の中に気分として響いていて、安心しきっていたと言うことだろう。信仰と無責任とを履き違えることが往々にしてある。根拠のない膨大な目標を掲げて、神様がおられ霊界が働くのであるから為せるという信仰的気分で望むのだけれど、そこに責任という覚悟と決意が供えられていないからものの見事に崩れて失敗する。信仰だと思っていたことが実はただの無責任であったと言うことだ。全体として摂理の願いを受けて来て、手がけた多くが失敗に終わったのもそこにあると思っている。内的霊的に成長せず、いつまでも責任の自覚もない幼いままで御父様にぶら下がってきた。その幼い体質が私にもしっかり浸み込んでいる。祝福家庭だという意味が、ただのおまじないのように捉えてきたから、実体のない気分で夢を見続けてしまって今そのツケの大きさに溜息をついている。しかし目覚めて責任の大きさに気付いたと言うことが、御父様の勝利圏を相続できる基準に私はやっと追い着いたのだと認識すべきだ。その認識する位置で責任の重さに押しつぶされるのではなく、この責任を引き受けるほどに信頼されているし、消化してこなせるから与えられていると思うのが正しい信仰観だろう。責任の重さに釣り合う決意と覚悟を供えながら、しっかりと前を見据えて一歩一歩を踏み出していく。天基二年、天一国11年目の神の日を迎えようとしている。御父様は今まで以上に激しい年になると話されている。その言葉を受けて不安な気分に主管されるのではなく、事に対して如何なる決意と覚悟も供えるという腹をもつことを御父様は願っておられ、その言葉の中に含めておられる。激しい年であればこそ祝福と恵みの年となる。必ずそうなる。このブログ日記を目にして下さる皆様の天基新年の御健闘をお祈りいたします。今年もありがとうございました。

白銀の輝き

青空が広がり、久方ぶりの太陽の柔らかい日差しを今日の地上は受け取っている。重石のように幹や枝にあぐらをかいていた雪が、日差しの暖かさで融け始めてバランスを失い、あちこちでどさっ、どさっと音を立てて落ちている。地表を覆っている雪は、太陽の光を浴びると一変する。雪雲と同じような鈍い灰色だったそれは、陽光を反射して眩しい程に光り輝いている。呵責で重々しい良心が、為に生きる善の行動を為すことで、質量が失せたように軽く感じるのと似ている。輝く白銀の印象を私の魂に反射させながら、次第に浮かび上がってくる感情がある。それは創造の神様と御父母様に対する賛美の感情だ。白い天使達が空から舞い降りながら地上に積もっていく。賛美の存在は賛美される主体が現れない限り、為す術もなく重なり合ってひたすら待ち続ける。しかし一度空が晴れ渡り、太陽を仰ぐと途端に賛美の表情を天に向ける。白銀に輝く地表はまさしく天使達がこぞって天を仰ぎ、賛美を惜しげもなく差し出す情景だ。白銀の輝きに仄かに青色を滲ませ、陽が傾いてくると次第に大きな太陽が差し出すオレンジ色を滲ませていく。更にすっかり陽が落ちても、空に残照が残っている限り、最後の最後まで賛美の余韻を輝きとして残していく。雪深い故郷の田舎で、何度も何度もこの情景を目にしたけれども、素直にその美しさを捕えることが出来ないほど、私の魂は恐れと不安に慄いて固まってしまっていた。祝福を戴いて、慕い侍る生活の中にいくらか蕩減も払えば、やっと魂も開かれてきて内的霊的本質に目を向けようとし始めたのか、自然の摂理を前にして涙ぐむほど愛おしく思えるときがある。

2011年1月30日日曜日

今日の想い 253

過去の記憶を尋ねる時、虚ろではあってもその時その時の情景を思い出せれば、情景に伴う感情だけははっきりと蘇る。思い出せても思い出せなくても、感情体験したひとつひとつが私の宝であり全てであり、生きて背負ってきた私の霊界に鏤められている。霊界ではそのひとつひとつを仲間と分かち合い、誇って自慢もし、賛美して喜び合うカテゴリーであると共に、それらが霊界生活の環境圏を決めもする。為に生き、愛する体験は、一滴も無駄にされずに霊界の環境圏となって、私に愛の光を照らし愛の呼吸を可能にさせる。勿論思い出すのさえ打ち沈む感情体験も少なくはないだろう。しかし肉体を持って生活している特権は、恨みとして存在する負の感情体験さえも愛と赦しで消化しながら感謝の体験に転換できることにある。生きているうちに感情清算して、過ぎてみれば全ては愛であったと笑みを浮かべて言えるのであれば、その勝利した感情体験は霊的環境圏を見事に変えてくれる。内的な勝利内容が私個人に関わるのみならず、周囲に愛の波紋を起こさせる全体的進化をもたらしていく。私の勝利が全体の勝利でもあり、全体の勝利が勝利の恩恵として私にももたらされると言うことだ。その意味で天国はお邪魔して入るところではなく、愛をもって造り住むところが天国だ。恨み多い地上地獄であったとしても、真の父母の愛の勝利圏で包み込み、恨みや反感を剥き出しにしながら私に対する社会存在を、真の愛で接して感化しようとするなら、彼らの多くは既に魂の奥から真の愛が押し寄せていることを感じていて閉ざした魂を開かざるをえないだろう。私達の全ての記憶や感情体験は、この世の堕落的記憶や堕落的感情体験とは根本が違っている。真の父母と因縁着けられており真の愛に起因している。この世的なものを全て流れて消え去る偽りの愛に起因していると断定することは出来ないにしても、真の父母に繋げられない限りいつ消え去るか知れない不安定さが残る。このレストランに来る多くの常連客は、本人も無意識のうちに引き付けられて因縁を結ぼうとしている。昨日も常時店にはいない私をやっとつかまえて、何を言われるのかと思ったら何としてでも手渡したかったとギフトをよこす。私が取り成すことで彼らは真の父母と因縁を結ぶ。それが彼らの背後にある霊達の新しい天地に住まう存在の足がかりになる。

2011年1月29日土曜日

今日の想い 252

横にいる妻に尋ねた。もともと料理が上手な母と苦手な母とでは子供はどちらがより善く成長するか。妻は即座に答えた。料理好きな母であれば家庭も円満になるし子供も善く成長する。私は少し微笑んで頭を振った。もともと料理好きであれば何の苦もなく日毎の料理を作るが、苦手であれば子供の為にという想いを込めなかったら作れない。子供は物を食して育つのではなく、込められた親の想いと愛を食して育つ。料理を放棄すれば話は別だが、作り続けることが前提であれば苦手であるとか家計が困難だとか、何らかの負の要素を補おうとすると想いを込めやすい。したがって子はその想いを受けて善く育つ。妻はふーんと頷いたけれど後に続く言葉はなかった。何かにつけて妻は外的であり私は内的だ。どちらが正しくどちらが間違っているかと問うことはできない。在り様としてそうなのだ。しかし一体化する為にどちらが中心になるべきかと問うなら内的なものが中心であるべきだ。妻は私が子供の為に条件を立てていると思っている。条件という言葉をどう捉えるかにもよるけれど、私は条件と思って行動している訳ではない。言葉をかけても響かず通じず、子供への想いだけが空回りしているようで何かせずにはおれないのだ。褒められることでも自慢できることでも何でもない。条件と言うような高尚なことではなく、親としての想いが駆り立てるだけのことだ。私は思考がより内的ではあるけれど愛があるかどうかは別問題だ。彼女と比べて愛が備わっているかどうかというと疑わしい。しかし明らかに他の兄弟と比べて愛が足りないことはわかっている。愛の足りなさは目の前の子供を見れば否が応でも突きつけられる。自分には子供に影響を与えるほどの愛がない。子供に申し訳なく先祖に申し訳なく、そして何よりも御父様に本当に申し訳ない。

今日の想い 251

神様は愛ゆえに人間を創造された。人間を創造されながら希望で胸を膨らませられた。神様は愛ゆえに人間を自由な存在として創造された。堕落する可能性もある自由な人間を創造された。自由な存在として創造されながら人間に対する信頼を胸のうちに収められた。堕落する可能性を絶対的信頼を持ち続けて超えてこられた。神様は愛ゆえに堕落する人間に手を出すことはされなかった。堕落のプロセスを追われながら手を出す衝動を縛り付けて耐えられた。愛を愛として残す為に耐えられた。もしここで神様が手を出されていたら、愛はもっとも貴いものとはならず従ってそれは愛とは言えない。愛の原理原則に対しては絶対服従で耐えられた。神様は愛ゆえに人間を救おうとされた。サタンの血統に繋がれたサタンの子女を、愛ゆえに我が子として救う為に絶対愛で復帰の摂理を尋ねてこられた。神様は愛ゆえに一人子を送られた。愛ゆえに唯一の一人子をサタンの末裔に送られた。そして神様は愛ゆえに一人子を犠牲にされた。人類を救うという絶対愛の為に犠牲にされた。神様は愛の為に全てを犠牲にしてこられた。事実、神様は全てを犠牲にされて何も持ってはおられない。神はいないと言う言葉は或る意味正しい。流す汗も涙も無くなり、最後の血の一滴すら犠牲にされて死の寸前にあって無きに等しい存在を、生きて働いておられる神様がいると認めるほうが困難だろう。そんな神様に取って御父様はどういう存在だろう。人類に取っては御父様の愛の勝利は救いであるけれど、神様に取っては与えて与えて与え尽くした後、初めて愛を受け取る位置を御父様によって復帰された。御父様ゆえに創造歴史を超えて初めて、神様は愛を愛として受け取られたのだ。御父様が捧げる真の愛が神様に届き、神様を本来の位置に迎えられたのだ。私達は御父様の愛ゆえに集められた。その愛は御父様の血と汗と涙に染まっている。御父様の血と汗と涙が私達の存在の基だ。私達も御父様の愛ゆえに精誠を供える。血と汗と涙を供える。私達は愛を求める存在ではなく愛を与える存在だ。与えて与えてボロボロになってもそれを善しとし、御父様に近付き似ることで喜びとする存在だ。

2011年1月26日水曜日

雪に想う

雪の冷たさの白が地上の全てを覆い、私の気分も冷たい白に包まれる。あれだけ暑くて溶けそうだった身体が、冬の今は熱を奪われて固くなっている。焼入れと冷却を繰り返すことで鉄の硬度が上がるように、活動的だった感情の熱を奪われることによって、外界から受け取ったものを内面の原則に加えていく。人は賛美されたり栄光を受ける体験だけに終始するなら、内面骨格のもろさを増していく。しっかり熱せられたそののち、その温度上昇分を凌ぐ冷却を施すように、否定もされ落ち込むことで初めて、受けた賛美と栄光が内面原則に加えられ内面は強化されていく。冬の間、活動的な夏への恋しい気分だけで過ごすのではなくて、雪の白の冷たさを施すことで新たな地上的創造サイクルの力を種子の中に宿していく、その自然の見えない知恵を私の中に受け取らなければならない。否定もされ落ち込むときに、冬の力として受け取れるものが、私の内面骨格を強度にしてくれる。私は痛みを甘受することで内面世界を天国にできる基礎工事を為している。自分の感情が始終求めている甘い気分には、それと相反する気分が必ず後先に付いてくることを知らなければならない。知恵ある者は、喜び楽しみを受け取るときに手放しで酔いしれることはない。下ることへの準備を備えながら賛美と栄光を謙虚に受け取るはずだ。夜半から降り始めた霙交じりの雪は、今朝にはワンインチ程には積もっただろうか。朝の暗いうちから出勤する人もいて、顔をあげて視線を周囲にやるでもなく、背中を丸めたまま水気の多い雪をフロントガラスから取り払っている。予報によれば、今日の夕刻には更に四、五インチももたらす雪雲が近付いているようだ。ワシントニアンは皆、雪にはうんざりしている。私の生まれ故郷も大雪のようだが、山々に囲まれ川も流れ、藁葺き屋根が点在する田舎の雪景色をこちらの知人にも見せてやりたい。色彩の美しさでは表現できないあの美しさを味わうなら、内面生活の深みは必ず増すはずだ。

2011年1月25日火曜日

カインアベルを考える(2)

先祖や過去の功労の位置で優位に立って満足している食口であれば、み言葉を身を切られるような裁きの刃として受け取ることはないのだろう。購読している教会雑誌の、心情と愛に満ちた兄弟の体験や子女教育の素晴らしい証しが心に痛くて、ページをめくることですら決意と覚悟が必要な、そんな兄弟達の気持ちもわからないだろう。アベルとして優位に立っている食口が、カインの位置でもがいている食口の心情と内的な戦いを理解できないなら、多くのカインは自分には流れてこない愛の不毛に晒されたままで、去らざるを得ないのかも知れない。信仰はアベルの位置で立てることは容易であっても、カインの位置で立てることは多くの困難を伴う。カインが信仰を立てられなかったことが復帰歴史を延々と引き伸ばしてきたのはその通りだとしても、アベルの位置でカインの失敗を裁いて切り捨てる思いがひとかけらでもあるなら、アベルであっても神様の前に誇らしく顔を上げることはできない。兄弟が使う言葉の概念として、謙遜傲慢、感謝傲慢という言葉はないのかも知れないが、信仰的言い回しの中に優位に立った者の独りよがりや冷たさが、上のような言葉として垣間見える場合があって素直に賛美できないことがある。栄光のみに意識の光を充てようとし、自分に何の負い目も無いかのように影の部分に触れようとはせず見て見ぬふりをする限り、神様の心情からは少しずつ少しずつずれていってしまうのではないだろうか。そして結果としてカインを切り捨てることになるのではないだろうか。本当の意味で栄光を在天してはいないと私は思う。その積み重ねられたカインの恨が形となって表面化したのが、今の教会の様々な問題であるように思える。アベルカインの勝利はカインが神様に繋がるように、アベルがしっかりと間に立ってお膳立てしなければならない。祝福家庭は氏族と人類の前にアベルの位置にある。アベルとしての役目を果たすためにどれだけの深い知恵が私達に必要とされるだろうか。御父様が言われるように、彼らの位置に降りていって酒でも酌み交わし、不信仰と烙印されても敢えて降りていって彼らを消化し天に繋いでいく心意気がなかったら、頑なな独りよがりの、形に囚われた信仰であって、それが何の役に立つのだろうか。個人の救いで良しとする自分がいるなら、それは謙遜傲慢であって、信仰的で見栄えは良さそうだが個人主義の領域から出たことにはならず、それは救いとは違うものだし救いの本当の意味もわかってはいない。 

2011年1月23日日曜日

今日の想い 250

幼少の頃の思い出の歌や、多感な思春期を彩ったいろんな歌をIPODに詰め込んでいる。最近、朝も明けぬ内から店に行って昨夜の売り上げを確認したり、いろいろ思いを巡らしたり、気が向けば本を読んだり勉強したりしているけれど、日曜の今朝はゆっくり流れる時の中で、IPODを店の音響に繋いで聞いてみた。誰一人いない店内で聞いているのは確かに自分だけだけれど、机や椅子や、照明機器や厨房機器、そして食器のひとつひとつまでもが耳を澄ませて聞いている。私は物を物としてしか捉えない仕方をやめている。全てのものに霊的背後があることを知っているし、込められた想いがその形を成していることを知っている。だからそれぞれが聞く耳を備えていることも知っている。懐かしい歌を結構な音量で流しながら、懐かしい記憶を皆と分かち合っている。懐かしい歌で蘇る私の過去の物語を共有することで、店内の全てのものは私の食口も同然だ。降って湧いたように突然やって来て、わが物顔で振舞っている従業員に比べると、それらは謙虚でありながら格段に身を粉にして店の為に働いてくれているかもしれない。更にこの店には多くの客達を連れてきてくれる霊たちがいる。歌を流し始めるとその霊たちは次第に何処からともなく集まってきて、椅子に腰掛けて私と同じように耳を傾ける。そして霊が更に霊を呼びながら店内は満杯になっていく。椅子のみならず腰掛けられるところは全て埋め尽くされる。ここに集まった全ての霊たちがこの店の見えない全てを支えてくれている。全く無力な私は、この霊達に感謝の念を供える事しか出来ない。愛をもって接することで人は変わるように、愛をもって取り扱うことで、黙していた背後の存在が直接私の心に言葉を届けてくれる。どんなに大変な時も、この店に来れば私はひとりではないと感じ、慰められもし力も与えてくれる。しかし悲しいかな家庭の中では具合は変わってくる。愛をもって接しているつもりが、言葉を投げかける毎に余計に固く閉ざして内面を見えなくする子を目の前にしている。今の私は、見えなくてもいいものが見えて、本来見なくてはならないものが見えてはいないのだ。

2011年1月22日土曜日

今日の想い 249

体が心を完全に主管していたために、心の願いがあることすら知らないままで多くの人は生きている。心と体の関係は人それぞれ違うけれども、誰よりも心を優位に保っていると思える人ですら、体が心を主管している位置から離れて、正しく主管転倒して心が体を主管できる位置に立たせた堕落人間はいない。宗教的な自分を中心として生きて初めて、心が体に主管されている私であり心と体が戦い続けているという認識を持つ。心が体に主管されるとは、地が天になり天が地になった私であり、この世の神、サタンが主管してきた世界とリンクし繋がっている。しかし天宙は既に創造理想本然の状態に逆転されている。主体であるべきものが正しく主体の位置に立っている。心が正しい位置に立って体を主管できる私になるためには、まわり始めた正しい天宙のギアに正しく噛み合わせていかなければならない。この天宙のギアを無視するなら存在すら否定されるだろう。存在に関わる全てのギアがこの大きな天宙のギアに噛み合わされていくからだ。今の今まで寄り添って生きてきた存在に関わる全てのものは崩れ去ろうとしている。自分の生きる拠り所がかくも空しいものであったと目から鱗が落ちたように認識の光を宛てられ、誰もがみ言葉を求めざるを得ないだろう。心が体を愛で主管する心と体の戦いのない私は、神様が正しい位置で愛して主管される天宙とリンクし繋がることができる。愛に生き、愛に保護され、愛を与えて受ける愛の存在としての私は、もはや肉の塊として地の底で這いずり回る存在から、霊的さなぎを破って愛の世界に羽ばたいていく愛の存在になる。

2011年1月20日木曜日

神様が投入されたものと私が投入するもの

熱が凝縮されて気体になり、気体が凝縮されて液体になる。液体が更に凝縮されるて個体になる。熱が希薄化されて光になり、光が希薄化されて宇宙の響きになる。宇宙の響きが更に希薄化されると言葉の本質になる。宇宙生成は混沌とした熱の状態から気体を抱合した状態を通過し、更に液体を含む状態を通過した後、地球星時代の個体を含む状態に移ってきた。今の地球に至るまで熱様相の混沌地球から様々な光の花咲く気体様相の地球、更に様々な音を奏でる液体様相の地球を経て現在の個体様相の地球時代を迎えている。今の人間に至るまでを見ようとするなら胎児である腹中期間を見ればいい。人間の腹中期間の成長プロセスは今の地球時代に至るまでの人間生成プロセスを物語っている。植物形状のようにやがて頭になる根の部分を下にしていた時期がある。爬虫類のトカゲのように尻尾を生やし四足で活動していた時期がある。元素も今の在り様とはまるっきり違うので、形状がそうであって今の植物や爬虫類そのままが人間の先祖であるとは言えないが、今の人間形状を持つまで様々な形状歴史を宇宙歴史と共に経て現在に至っている。熱が一方で希薄化されて光になると共にもう一方で凝縮されて気体になる。想いという熱が希薄化されて閃きが生じると共に一方で凝縮されてイメージとなる。そのように神様の天宙の創造過程も人間が発明する創造過程も同じだと言える。神様の相対実体を求める想いが気体となり光となる分化が爆発的ビッグバンであるように、想いの強さが全ての展開や創造の基となる。神様の天宙創造と人間創造にどれだけの神様の想いがそこに込められたかを想像するなら、今の私の想いがどれほど頼りなく小さなものであるかを知って、更なる祈りをそこに込めるだろう。神様の私と言う相対実体への想いがどれほど愛の心情に満たされているかを思うなら、神様の創造理想への願いを私の願いとして生きたいと思うだろう。私達の精誠への想いや意志はそこから出てくる。精誠を投入し積み重ねていくことで、必ず悲願が為せることを私達は確信している。

2011年1月18日火曜日

今日の想い 248 (妻を見ながら)

冬の間、身体の悪い妻はいつもソファーの片隅に蹲って一日の大半を終える。食事の支度であるとか洗濯であるとか、そして売り上げの記帳や支払いのチェック書きなど、日常のやるべきことは少々体がきつくても遣り終えなければ気がすまない性格なのだが、それを終えると同じ位置で同じ体制で、寝るでもなく動くでもなく過ごしている。四年前に戴いた臓器はここ一年のうちに機能を大きく低下させ、医者からは早く透析の為の腹腔手術をするよう彼女に要求している。あの透析生活の辛さを味わうことへの本人の拒絶が祈りに込められ、ぎりぎりの状況ではあっても辛うじて日常を送る体調を維持している。去年の前半には国税局の監査で気を痛め、後半には帯状疱疹で身体を痛めて一年を終えた。今でも夜になると痛みが出るらしく完治した訳ではないが、それでも一時の地獄を思うと天国らしく、柔らかい妻の表情が今の私には何よりもありがたい。そんな身体の状況で明日の事はわからないし、ましてや半年先、一年先のことなどわかろうはずも無い。先々の事を憂いて沈んで暮らすより、今与えられている喜びを感謝して味わうことだ。今の彼女に取っては動けることが喜びであり、痛みに顔を歪めずに送れる日常が喜びなのだ。夫として共に喜んであげながら、感謝の想いに満たされた一瞬一瞬を積み重ねていくことが、今日の何よりの供え物だと思う。分相応と言う言葉があるように、周りを見比べて不平を言うのではなく、自分の人生を精一杯歩むことだけに集中すればいい。大きな願いがかけられているのはその通りだが、今の今大善を為せない私であることは認めて、だからといって目の前の小さな善行を否定すべきではないだろう。今日の、為に生きたい想いが小さな行動となって、ひとしずく、またひとしずく、対する相手の魂の水面に、そして社会という水面に落していくことで、愛の水の輪は確実に水面を広がって影響を与えていく。どんな状況であれ為に生きることは出来るし、為に生きることが生きる喜びなのだ。今日の柔らかい妻の表情は、感謝の気持ちを私に起こさせたことで、十分為に生きている。

今日の想い 247

日暮れからずっと屋内にいたので、氷交じりの雪が降っていたことに気付かなかった。息子は学校でバイトをしていて、いつもなら遅くても八時までには帰るのに十時近くになっても帰って来ない。携帯にかけたら、氷雨で道がツルツルになっていて、立ち往生する車でなかなか先に進めないようだった。窓越しに外を見ると普通の雪が積もっているように思えたけれど、確かに外灯に照らされて見える降り行くものの速度は速いようだ。氷雨が降ると地上の全ては氷で覆われる。刺々しい氷で覆われて目にするにも寒々しく、手を宛てればノコギリにでも触れるような感触だ。去年の冬も何度か氷雨が降って氷で覆われ、この地域の被害は思いの他大きかった。特に取り付いた氷の重さで耐えられなくなった電線が至るところで切断されて、ひと月以上も停電した地域もあった。しかし夜中まで降り続いた刺々しい氷の被いも、明け方には雲が晴れて日が差し始めると、氷の被いは角を削られて滑らかになる。ノコギリのような表面が滑らかな氷でコーティングされたようになって、柔らかい光を反射する。青い空を背景に光る樹氷達が何と神々しいことか。地上に神界の神々が降りたように思えたほどだ。この世がどれほど反抗的牙を剥いているとしても、暖かな愛の日差しを投げかけ続けることで様相は一変する。氷点を超えるまでは何の変化もないように思えるが、ひとたび氷点を超えると忽ちこの世は一変する。真の愛で世界は確実に変わる。かつて無かった世界を私達は確かに目にすることになるだろう。外はまだ降り続いている。しかし氷雨は雪に変わったようだ。車のフロントガラスの氷かきが明日の最初の仕事になると思いながら、眺めていた窓のブラインドを下ろした。

2011年1月17日月曜日

今日の想い 246

堕落圏内でサタンの主管下にあった宇宙が、今も何も変わらず同じ宇宙として存在しているかのように、私達は認識している。しかし今の宇宙は生の源泉の中心、存在の源泉の中心、宇宙の根源は真の愛であり、真の愛だけが生を主管し存在を主管し宇宙を主管する。真の愛の概念がなかった宇宙は幻の宇宙であり、霧散する幻を信じて歯車として根源に噛み合わない悪がはびこる世界になってしまっていた。しかし今は真の父母を戴き真の父母が勝利されたことによって、真の愛の概念が私達にもたらされこの宇宙にもたらされた。真の愛の概念を受け取った今の宇宙は根源が真の愛による宇宙であり、真の愛のみに生きれば今の宇宙は天国も同然だ。したがって天国の中にあっては地獄もなくなるのであり、悪をおこなう者達も天国の中に組み込まれ、歯車を合わせなければ自らで自らの存在を否定せざるを得ない。真の愛のみに生きることで存在は存在として保護される。先天時代と後天時代の違いは宇宙そのものが大転換したということだ。人類全てが真の父母につながり真の愛に生きるようになるし、そうならないなら神様の創造理想自体にもともと欠陥があったということになる。これから益々真の愛に生きれるよう、ぎこちない歯車の噛み合わせを確実なものにしていかなければならない。食口であるなら尚更であって、原理非原理と壁をつくり、私は救われる人、非原理は救われない人というような幻の認識を打ち砕き、私にあるそういった都合の良い認識や真の愛に反するものを矯正して、排他主義に陥らないように注意すべきだ。真の父母にギアを合わせる本来的食口であるなら、自分のみ言葉への認識が間違ってはいないか正しく真の父母に向き合っているか、訓読会だからみ言葉を読むというのではなく常にみ言葉に接しながら正さざるを得ない自分であるとわかっている。

2011年1月15日土曜日

今日の想い 245 (日常の中の神様)

神様を体験するということが、日常に起こり得ない何か特別な体験であることを期待しているけれど、奇跡のような出来事が目の前に起こったとしてもそれは私をあっと驚かせるだけのことで、神様を全く否定している無神論者ならまだしも、神様を信じる者にそんな接し方はされない。神様は一瞬たりとも私から離れること無く、常に働きかけておられる。日常の全ての事柄に働きかけ、私の内なる魂に生起する思考感情意志の全てに働きかけておられる。昼の陽光の中に働いておられ、夜の印象の中に働いておられる。意識する活動の中に働いておられ、無意識の安らぎの中に働いておられる。呼吸の一つ一つに働いておられ、生命を維持する生命活動の中に働いておられる。特別な体験を期待するのではなく、意識する必要のないほどの毎日の事柄が如何に特別であるかを知らなければならない。何気ない日常を送ることに、どれほどの愛と犠牲の支えがその基になっているかを知れば知るほどに、居た堪れないほどの申し訳ない思いと感謝の思いが私の中心的気分として備わる。だから私が本来的位置にたっているかどうかの判断は、謙虚さと感謝がどれほど私の中に備わっているかどうかによるだろう。人間は言葉を道具とし仲介として内的霊的な遣り取りを為している。内面に浮かんでは消え、消えては浮かぶ数え切れない思いや判断や気分を、言葉をもって存在させている。外的なこととして訓読するにも言葉を使い、読書するにも言葉を使い、人との遣り取りも言葉を使って、それらの言葉から自分の言葉として受容できる言葉を、言葉の本質として自分の内面に落とし込んでいる。私がどういう言葉を持っているかが私がどういう霊的存在なのかということだ。日常の中に神様の愛と犠牲が供えられているにもかかわらず、それを知り得ないということは私の中にそれを知り得る言葉を持ち合わせていないと言う事が言える。私の中に神霊溢れる言葉を備えることが霊的な感性を備えたと言うことができるし、それによって見聞きし体験する事柄の中に今までは見えず気付かなかった多くを受け取れるようになる。外面に於いては宇宙や全ての万物、自然様相を通して語りかける言葉を聴き、内面に於いては御父様の心情を私の魂の奥から届けられる言葉で受け取れる。

2011年1月13日木曜日

今日の想い 244 (J子さんの思い出)

水産が摂理の最先端だと、羨ましいと言わんばかりに送り出されたけれど、販売実績の無い私だからこそ白羽の矢が立ったことは知っていた。何をやらせてもだめだろうと思われていたのは、鈍い私でも良くわかっていたし自分でさえもそう思っていた。いつ厳しいみ旨の歩みについていけずに背を向けるのかは時間の問題のようだった。人事で東北岩手から東京に出さえすれば、機会を見て抜け出すことは可能なはずだ。人事に際してそんなことも思ってみた。事実それからは常に機を伺っていて、その日その時の準備に余念がなかった。心に芽生えたことは行いに出るのは当然で、その決行当日の詳細については随分前に記したことがあるのでここでは避けるが、田舎に帰る道すがら、祝福を諦めることについて後悔の念という刃先で心の内側を突きまくられて苦しくて苦しくて仕方なかった。結局当時の責任者に話してもう一度頑張ることに決めたのだが、やはり私にはいつまで歩み続けられるか自信が無かった。名古屋に移動させてもらいそこで悶々としながら歩み始めて暫くして、心霊復興と言うと大袈裟だが名古屋の近くの長嶋温泉に皆で行った。そこでJ子さんの公演がその日にあって、それを皆で見に行った。刑務所に歌手が慰問に来るような、勿論刑務所生活ではないし出向いて見に行ったので実際は違うのだが、気持ちとしてはそんな気分だった。みんなはそれぞれ食事をしたり大風呂に入ったり、日曜でごった返す施設で人ごみに埋もれながら楽しんでいた。いよいよ開演だ。皆がステージに近い前方に席を取ろうと突進していたけれど、私はというと見えるか見えないかの後ろの方で佇んでいた。この派手なステージに今の私は馴染めないと思った。色とりどりの照明が踊る中、テレビで見ていたJ子さんが客の頭と頭の間から見え隠れする。五、六曲だったろうか、アップテンポの聴きなれていた歌が会場を揺らす音響と共に届けられた。そして弾む息を辛うじて抑えながら最後の曲紹介を本人がすると、照明がグッと落とされ、目に心地よい柔らかなブルーの光に包まれたJ子さんが静かに歌い始めた。化粧という曲だった。詩の内容は別にして、聞き受けるうちに物悲しい、むせび泣く様な曲調が私の心に滲みて共鳴し始める。涙が止め処もなく流れてきた。不安や自責の念や訳のわからない感情が涙となって流れ出た。そして、この涙のお陰でもう暫くは我慢して歩み続けられるとその時思った。祝福にあずかる少し前の、今から三十年も前の話だ。そのJ子さんが数年前に一度店に家族で来てくれたことがある。

今日の想い 243

苦しい時には苦しむ為に生まれてきたと思えばいい。悲しい時には悲しむ為に生まれてきたと思えばいい。この苦しみが苦しい時の私の友であり、この悲しみが悲しい時の私の友なのだ。悩み多き人生も、生きていればこその悩みであるから、悩むだけ悩めばいい。大した悩みも通過せずに、感謝の気分でみたされることなど有り得ない。悩み苦しみ悲しんだ分だけ、私の内面は感謝の気分で満たされていく。より深い感謝の想いに没頭できることが至福の境地なのだ。苦しい時も悲しい時も、御父様をしっかり掴んで放さずに、お父様にしがみ付いて苦しみを味わい続け、御父様にしがみ付いて嗚咽すればいい。そうやって、御父様と共に歩む内面生活を過ごして初めて、御父様の為に頑張りたい、お役に立ちたいという想いの芽が芽生えるのであって、心情因縁の積み重ね無しに御父様を慕うことはできないだろう。たとえ絶望の淵にあり、悲哀の奥底で心身をくねらせるとしても、御父様が私と共におられ同じ境地を共にしておられるという実感が、唯一の私の支えだ。私が投げ出そうとしても、御父様は私の為に、投げ出す私の分まで引き受けて背負い、私を先導しておられるはずだ。今私が全てを投げ出し、ありとあらゆる悪に身を委ねたとしても、地獄の底のその位置で私の隣に御父様がおられる。だから、地獄であろうが死の境地であろうが、恐れる必要はまったくない。火に焼かれるその場で御父様と共に焼かれ、死の病の苦しみの中で御父様と共に苦しみ喘ぐ。恐れの為の信仰ではなく、御父様と共にある歓びの為の信仰だ。御父様御父様と、念仏を唱えるようにぶつぶつ言いながら、駄々っ子の様に御父様をつかまえて放すことはない。

2011年1月9日日曜日

カインアベルを考える

この地上で堕落的習慣性に漬け込まれている者達であっても救いの手は差し伸べられるべきだ。もし私の中に彼らに対する哀れみの感情の一つもなく、はなから背を向けるのであれば、私はアベルの位置で正しくカインに向き合ってはいないと言う事だ。アベルの位置で彼らを救おうとするならカインの位置まで降りて行かなければならない。カインへの非難を強調するけれど、アベルがカインの位置まで降りて行き、カインの手を取って引き上げることをしなければカインは救われようがない。私は一方に於いてはカインの位置にあり、そしていま一方に於いてはアベルの位置にある。そしてカインの位置で正しくアベルに向き合ってこそアベルの位置にも立つことが出来る。アベルの存在が私のところまで降りてくれたから引き上げられていると言う観を持ってしっかりアベルと繋がり、アベルから引き継いだものを相続してカインに対する。地上の救いはメシアが肉体を持って地上に降りてこられたから救いがもたらされたのであって、私が御父母様に出会い天の血統に繋がれている事の背後に、莫大な天の犠牲が供えられていることを知的にも心情に於いても受け取らなければならない。この堕落世界を救うと言うなら、私達はカインの位置まで降りて行って彼らの手を携えて再び上って行かなければならない。氏族を救うと言うなら、彼らの僕の位置にまで降りて、彼らが屈服せざるを得ない立場を通過しながら、そうして初めて彼らが私に歯車を合わせてくれるのであり、聞く耳も持たない状況でどうして氏族復帰が有り得るだろうか。カインアベルという原理観が、私の中にあるカインアベル、即ち心と体の関係性に於いてはっきりと認識されずに、家庭に於ける歯車も、氏族に於ける歯車も、噛み合わせるどころか中心になる歯車さえ用意することができずにいる。世界の問題、教会の問題を傍観者的に取り上げ、カインだアベルだと言いつらっても、摂理に反する力に寄り添っているだけで天の心情圏外の存在でしかない。

2011年1月8日土曜日

今日の想い 242

平和の主人、血統の主人の冒頭に、これからは先天時代から後天時代、本然のカインアベルの時代へと超える、とある。後天時代は本然のカインアベルの時代であり、カインアベルの関係も本然の関係があるということだ。堕落したからカインとアベルに分けられたのではなく、神様の創造理想の中にカインとアベルの関係性が組み込まれている。堕落したことによって復帰摂理上、カインは悪の表示体となりアベルは善の表示体となったが、創造歴史の過程に於いても更に後天時代に入ってからも、カインの位置がありアベルの位置がある。そしてカインは後に現れるアベルを通して引き上げられていく。カインアベルの関係性で宇宙も歴史も繋げられており、もし私が堕落圏を脱するとしてもやはりアベルの存在を戴きながらアベルとひとつになることによって新たなステージへ引き上げられていく。人類一家族理想を掲げて歩んでいるけれど、人類全てが一応に並列に並べられる訳ではないだろう。その内的霊的在り様に於いて差が出て当然であり、しかしその階層間の関係性は堕落的反発的なものではなく、本然的関係で繋がれていくはずだ。アダム家庭を見るとき、カインはアベルを殺してしまった。どうして殺人までに及んだのか殺すことも無いだろうにと思うけれど、恐らく一つになるか一方を消し去るかと言う選択肢しかない宿命的なものがあったに違いない。アダム家庭でアベルは殺されたけれど、御父母様のもとの本然の関係ではカインとアベルはひとつになる以外ない。私の中のアベルとカイン、即ち心と体もひとつになる以外ない。アベルUNとカインUNもひとつになる以外ない。アベルが生きてカインと一つになることで新しい世界が開け、新しい次元に進む。

2011年1月6日木曜日

今日の想い 241

一生懸命与えようとするものを侵入と捉える、心を閉ざしたままの魂の在り様をどうやって溶かしていったらいいのだろう。氷が水になる融解点が零度であるように、固体状況の魂が融解する温度を測れるとするなら、一体何度になったら閉ざした心を開き始めるのだろうか。親の想いという熱様相をひたすら与え続けながらも、目も合わさずに無表情をまとい続けて、伺いえる小さな隙間さえ見せないでいる。もしも魂の冬がいつまでも続いて終わらないとするなら、この家庭に流れる愛は既に枯渇しているとしか言えない。うな垂れた顔を上げて目に輝きを取り戻し、固まっていた表情を弛緩して笑顔を取り戻す。しっかりと固く閉ざされたまま暫く開くことさえなかった口元を緩め、要求でも何でもいいからその口を開いて言葉を投げかけて欲しい。春が来るのをひたすら待ち続けて冬を耐えてきた。燃えきれず燻る想いを抱えながら、どう接していいのかわからずに焦りだけを相手に晒している。年だけを重ね、身体が成長しているのは確認できるとしても、その心の内の変化を直接見届けることは出来ない。期待だけを繋ぎ続けて今に至って、それが他人任せの親の無責任でしかなかったことを教えられた。親としては教えられたけれど、子供に対するこの期間の犠牲は大きい。それが全て態度に表れている。遣り切れない想いが私にあるように、言葉に表せない更なる恨が神様にある。私は神様に対して、居た堪れないほど申し訳ない。私を信じてこの子女を任せてくださった神様に対して、私は顔向けできない。それでも神様が任せざるを得ない私であるならば、私が出来る最後の精誠があるはずだ。その決意と覚悟を供えて今を生き続けていく。

2011年1月4日火曜日

妄想経済

共産主義経済の失敗は、経済生活に取り入れようとした政治的管理の仕組みが、そもそも経済生活に取って全く異質なものだと気付かなかったし、気付こうともしなかったことにある。経済という自主性の上に成り立つものに、政治的な管理を宛がえて自主性を否定するものはそぐわない。資本家の弊害を無くそうとして共同体に管理させようとしても、今度は共同体の弊害が起こったのであり、それを無くそうとして国家が管理すれば今度は国家の弊害が起こった。弊害が移行するのみならず弊害は益々大きくなっていった。現実的な自主性に代わって抽象的な全体の意見に傾倒するなら、それは経済生活の死を意味する。勿論自主性には個人であれ組織であれ責任が伴うのであり、大きな発展もあるけれどもリスクを過小認識することで後退する場合の結果責任も逃れられない。資本を個人から共同体や国家という全体に移行されることで、責任も全体が引き受けてくれると思うのは、全体が実体の無い妄想であるように妄想である。責任の引き受け場が無く、宙に浮いたままで誰も引き取らなければ、経済が成り立つはずがない。しかし共産主義経済だけが失敗した訳ではないだろう。資本主義経済も既にそのシステムに抜け穴があることを探し当てた泥棒達によって存分に弄ばれている。自然経済から貨幣経済に移り、更に貨幣経済から信用経済に移ってきた。そして今の金融経済から信用はすっかり影を薄め、資本を回せば回すほど根拠の無い数字に粉飾された資本として膨らみ、本来の実質成長のない空虚なバブル経済が浮いているだけだ。共産主義経済は管理を委ねた全体が妄想であったのに対して、資本主義経済は貨幣から信用、更に金融に移っていく過程で、遣り取りされるもの自体を実質の伴わない妄想に仕立て上げていった。今は妄想を遣り取りしながら経済生活を営んでいるというのが現実だ。しかし金融という妄想の化けの皮が剥がれると、一気に世界経済のネットワークで繋がれている全ての貨幣は、紙切れや実の無いプリントされた数値だけになる。しかし一部の者を除いてまだ妄想とはばれていない。ばれない間、どううまく遣り取りしながらみ旨に役立てるか。それはそれぞれの責任者に、そして兄弟一人一人にかかっている。

今日の想い 240

全ての部屋に定点カメラでもつけて一日や一週間がどのように送られているのか確認するように、時には客観的立場で親の立場で子供にどう接しているか、子供は親にどう接しているのか、夫婦互いにどう接しているのか、見てみる必要があるのかもしれない。行動や言動にそして表情や雰囲気に、真の愛が関与した愛に満ちた家庭であると言えるのかどうか。子供が体を患ったり悩んでいたりすれば親が心配するのは当然であって、それはこの世の親であっても同じことだ。この世の家庭と違って祝福家庭としての親の在り様とはどういうものだろうか。私達は私達の親、即ち真の御父母様から親としての在り様を学ぶ以外ない。愛が数値で測れるものではなく、他の価値に置き換えられるものではないというところに、愛の何にも勝る愛たる所以があり、愛をより愛らしくするものがある。愛を測るように把握して与えるのであったり、愛を与えた結果を期待して与えるのであれば、それは真の愛とは言えないだろう。打算的なものは一切排除され、ただただ相手を想う衝動に委ねて与え続け想い続けることで善しとする。そこに御父様から流れてくる真の愛は生き続けるはずだ。真の愛の流れの只中に私は存在している。流れを堰き止める私ではなく、私の心情を通過点としながら無条件にひたすら与え続けること流し続けることでこそ真の愛は私に流し続けられ与え続けられて離れることは無い。私の位置で堰き止められるのであれば真の愛は私を避けて流れていく。親として子に対すれば与える何の言葉も持ち合わせていないことに気付く。しかしそれでも搾り取ってでも与え続け愛し続けようとするなら、必ず与える言葉を与えられ、語る言葉にも愛に満ちた想いがのせられる。愛が届けられてこそ頑なに閉ざした子供の魂は開かれ愛を吸収し、真の愛の流れの中に必ず身を寄せるようになる。祝福家庭としての親の在り様は、御父母様が無条件に私に与え続け子として想い続けておられるように、子に対しても無条件に与え続け想い続けることだ。与えるその根源が湧きいずる御父母様から来るものであることを実感し続けることだ。

2011年1月3日月曜日

今日の想い 239

教育の難しさ、とりわけ二世教育の難しさは教育の入り口にさえ入れずに悶々としている一世に主たる原因がある。まず子供に対するとき子に向かうべき愛としての教育であるべきなのに、祝福子女はこうあらねばならない、祝福を受けなければならないと言いながら子にしてみれば押し付けや足かせでしかないし、親からみれば自分が思うところの祝福子女としてのあるべき理想像へ向かわせる方法でしかない。一世である親自身が、押し付けられ足かせを嵌められてきたという思いが我知らず押し込められた意識の底にあって、子供に対して言葉を届け想いを届けようとしても、その意識の底にある愛として受け取れなかった感謝できない恨みが、届ける言葉を無機質にし、込める想いに愛溢れる潤い感を持たせられないでいる。勿論、個人としても全体としても蕩減路程としての歩みは内外共に困難を極めてきたことは事実だが、子の前に立つ前に、内的に消化しながら歩みを通して受け取った果実を私の魂の在り様として前面に押し出し子に対さなければ、消化しきれない恨みや想いがあからさまに子供に伝播する。表情に出るし態度に出るし、行動に出るし言葉に出る。そして子供の前に立って具体的に善き言葉を伝えようとするとき、語る言葉が自分になく伝える想いに熱が篭らないことに愕然とする。愛されていたなら受け取った多くの愛を子供に流すべく、惜しみない子への想いが溢れて注ぎ込めるはずなのに、実のところは御父母様から受け取ったはずの自分の中から、取り出して与える何ものも持ち合わせてはいなかったのだと思い知る。歩んで来た個人的復帰摂理と思って来たものは実は愛が関与する為の復帰摂理の基台摂理だったと思い知る。本当の意味で愛と名の付くものが直接的に関与されて出発するのは家庭を出発してからだ。苦労した基台摂理に疲れ果てて、家庭は出発したものの半惰性的に夫婦で一緒に生活し、半惰性的に子供を産み育てて生活に追われていく。知らない間に体だけは大きくなっていく子供を見ながら焦りを感じる。真の愛が関与すべき祝福家庭でありながら、この世的な家庭愛に留まったままでいる。外を走りながら万物復帰に明け暮れていた若い当時の歩み以上の内的霊的エネルギーが、実は家庭を出発してから本格的に必要とされる。愛の復帰の戦いは毎日の数字結果として表れないだけに、投入して投入して投入し続けなければならない。戦いは既に終ったのだと日没の余生に溜息をついている場合ではなく、家庭の中にあり子供を前にして本当の愛の戦いが繰り広げられている。

今日の想い 238

人間は地上界と霊界両方に足をかけて存在しているけれど、外的地上的なものに重心を置いて生きているのか内的霊的なものに重心を置いて生きているのか、その違いには天と地の差がある。たとえ私は信仰を持っていると自覚しているとしても、信仰の在り様にも外的な信仰の在り様と内的な信仰の在り様があって、多くの食口は外的な信仰の在り様に留まったままでいる場合が多い。絶対信仰という言葉を受けて、信仰と絶対信仰の違いが何なのかどうも曖昧で良くわかっていないと思うのであれば、信仰が外的形式的、更にこの世的であるということで、それは本当の信仰とは言えないだろう。ましてや周りの食口を見ながら、それに合わせていれば信仰生活をしているような気分で安心だなどと言うのであれば、本当の信仰とは程遠い。絶対信仰は表面的な信仰気分でもなく、他と比較して自分が劣ることに対する恐れでもなく、あくまで主体的であり能動的なものだ。そういった絶対信仰であってこそ私は精神に於いて自由を得ることが出来る。自由を得て信仰に至るのではなく、絶対信仰を供えてこそ私は自由になれるし自由という言葉の意味を知る。外的地上的なものに重心を置いて生活するということは、五感で受け取ることや目の前に起こる事柄を情報として判断し、皮膚や感覚組織で反射させているから輪郭情報以上の本質を知ることは無い。内的霊的なものに重心を置いて生活すれば、感覚情報や体験を皮膚や感覚組織を通過させ私の心魂に反射させることで本質を問おうとするから、ただ流されるままに毎日を送るというような内的霊的に目隠しをしたままの生活とは異なるものとなる。内的霊的なものに重心を置いて神霊溢れる歩みをすれば、風が私に気付きを与え、草花が私に微笑み、自然が私に語りかけてくる。更に流れる時でさえ太古の記憶を運びながら、生きて働く時の霊として今を読み解く叡智を授けてくれる。