2011年9月30日金曜日

雷の音を聞きながら

昨夜は一晩中ゴロゴロ鳴っていた。大気が飽和状態なのか呼吸をするにも息苦しいほどで、温度も差ほど高くないはずなのに蒸し暑く、なかなか眠れなくて地鳴りのような雷の音がずっと耳の奥に届いていた。雷の音を聞くたびに、御父様が話された自然の愛の営みのことを考える。陽電気と陰電気が交わる愛の営みが雷だという論理は理解できるけれど、どうも雷のオドロオドロしい印象が邪魔をして、雷鳴や稲光が愛の営みによる歓喜の表出だとはなかなか思えない。堕落人間だからそうで暗い印象しか抱けないのか、御父様には雷が陽陰一体の至上の歓喜として受け取られておられるのか、おそらくそうなのだろう。雷が鳴って降る雨は愛の営みのかけらであって、愛の営みのかけらで地上の万物は生命の恵みを得る。そのように人間も夫婦の愛の営みのかけらを放ち、それを霊的生命の雨として霊低存在は生命の恵みを得ている。本然の夫婦であれば愛の営みでひとつになれば霊的な光を放つらしい。一度、雷が鳴って雨が降る中で愛の営みをしてみることも必要だ、みたいなことも話されておられるけれど、愛の営みがことごとく堕落的地上的なものに引き下ろされてしまった地上の現実では、ただの形だけに拘っても、御父様が話され意図されることとは大きく異なっている。本然の愛の営みと、愛欲肉欲が絡まった営みとは形は似ても非なるものと思わなければならない。妻の体が或るとき急に百歳の体になっても、顔の肉が溶けてシャレコウベとなっても、それでも唯一の相対として抱きたいと思えるならその愛の営みは本物に近いのかも知れない。ひとつになって宇宙を抱いている抱擁感に酔えるなら、それは本物かも知れない。アダムとエバは自己の完成をまたずに、形だけの、即ち内容が伴わない愛の営みに走ってしまった。堕落性を引き継いでいる私達も堕落的なものがそこに混入されていて、その不純物故に光を放つことはない。浅い眠りの状態がしばらく続いて、雷の音を遠くの方に聞きながらそんなことを問うてみたり頷いてみたり、そのうちに意識は闇の向こうに遠ざかっていった。

2011年9月28日水曜日

お金に対する価値認識

外的な価値、特に金銭的価値を把握できない兄弟が多い。万物復帰、献金摂理、教会ビジネス、とお金に関することが常について回ってきた。それほどにお金に関わってきたのなら、お金に関してプロ中のプロであるべきなのに、お金の価値認識が極めて浅い。浅すぎる。お金の価値も理解していないのに、お金が寄ってきて集まるはずがない。これまで手を変え品を変え、献金の願いに応えようと様々な商売に手を染めてきているが、ものになったビジネスは殆どないだろう。常に尻すぼりで終わり、結局重税をかけるように個人献金に頼らざるを得ないと言うことになる。霊的価値を深く掘り下げないまでも、せめてお金の内外の価値認識を持つべきだ。兄弟個人にしろ教会組織にしろ、お金を量的なものにだけ価値を認めようとしている。量的なものだけを追い求めようとするから、金が金を産むと言えるような価値を認識できずに、ザルですくい続けているようなものだ。お金には量的な価値と同時に質的な価値がある。量的価値はお金のより外的価値であり、質的価値はお金のより内的価値だ。精誠という言葉を知っておりよく使うにもかかわらず、手にしたお金が精誠が込められたものであるかどうかの認識はない。どんなお金も同じお金だと思っている。汗水たらして得たお金と盗んで手にしたお金、どちらもお金に違いはないからと、もし金銭を受け取られるとして御父様はどちらも受け取られるだろうか。年収一億の者の百万の献金と、年収二百万の百万の献金は質的に同じだと言えるだろうか。嫌々ながら差出す献金や思い入れもなく機械的に差出す献金と、公的に使っていただけて嬉しいと差出す献金が同じだと言えるだろうか。どういう質のお金を紡ぎ出したいか、遣り取りしたいかを問わず、量的なことだけを問うならば、お金に対しては極めて外的な扱いであり、或る意味唯物的と言ってもいい。共産主義を否定しながら、私達の無意識の中に唯物的なものが入り込んでいる。創造的発展的なものに使われるお金の誇りや喜び、熟慮の後の判断もなく垂れ流されるお金の悲哀や絶望。お金の声なき声に耳を傾ける共感も体験もなくて、お金は寄っても来ないし集まってもこない。お金に長く関わりながら、お金に対して何の学習もされず、ビジネスだと言いながらも未だに万物復帰感覚しかないことがどれほど恥ずかしいか。私も万物復帰の経験は長い。復帰されるお金は精誠が込められているが、批難覚悟で敢えて言うなら、そのお金は乞食的精誠だ。

2011年9月27日火曜日

人は自分の霊界を背負って生きている

地上に於いては自己中心の欲望を正当化し開き直ることはできる。しかし自分という存在は地上にのみ生きる存在ではなく内的霊的に生きる存在であり、地上存在は影のようなものであって内的霊的存在こそが私自身だ。だから見るべきは欲望を満たし感覚的悦楽に浸る刹那の自己満足ではなく、私と言う霊界を何で創り、何で満たし、何が息づいているかということだ。私と言う霊界と言う表現は混乱させるかも知れないが、神様が天宙を創造されたように、私も私と言う天宙を創造している。地上存在としての私を創造すると同時に、内的霊的存在としての私という天を創造している。地上の言葉での説明では限界があり困難だが、霊界への門を潜ると言うことは私の内面にあったものが外面になる、裏返しになって私が内面に培ってきたものの中に住むことになる。だから感覚的肉体的に得たものに対する自己満足で良しとするのではなく、その動機や過程に於いて何を内面に混入させているかが問題だ。私達は知らないうちに多くの喜ばしくない侵入者を内面に取り込んでいる。囁く悪魔が私の内面に住んでおり、刹那の感覚的欲望を誘発させ堕落的な生活に拍車をかけている。侵入者が侵入者を呼び、本来私のエデンの園であるべき私と言う霊界にありとあらゆる霊的存在としての侵入者が我が物顔で居座っている。自己中心に生きる人間はその都度悪霊雑霊存在の類を内面に取り込み、自分の宮殿を荒れるに任せている。霊的感性が備わっていないので、幸か不幸かその実情を知らずに、囁く悪魔の言いなりに任せて地上の刹那の悦楽に浸っているけれど、そのツケから永遠に逃れることは出来ない。

2011年9月26日月曜日

霊界の言葉

霊界からのメッセージを読めば、霧が晴れるように霊界について見えてくる。その一つに並み居る聖賢達のメッセージに共通して言えることがある。生前の彼らの歩みに対する反省と悔い改め、そして勝利された御父母様への感謝と賛美に満たされている。御父母様に対する証しのメッセージだから当然だろうと思うけれど、穿った見方をすれば、似たり寄ったりの文章は誰にでも書けるような内容で、さして霊界を確証させるほどの目新しい事柄は見えないと、本当に聖賢たちの言葉なのかどうか疑いの心を抱く兄弟も中にはいるはずだ。霊界の聖賢たちの想いを地上の言葉に置き換えるからそうならざるを得ないのであって、地上の言葉表現の限界はどうにもしようがない。霊界は心情世界であり、霊界の言葉は感嘆表現だと言っていい。地上では感嘆表現を言葉にすれば限られてしまうが、霊界ではありとあらゆる感嘆表現に満ちている。或る意味、どれだけ深い感謝の地上生活をしたか、すなわちどれだけ感嘆するほどの体験をたくさん積んでいるかが霊界の位置を決め、高い霊界の表現方法ともなる。毎日が同じように流れ、見飽きた景色の中で生きているようだけれども、今日の一日は今日だけの一日であり、周囲の景色も目に写る輪郭と色彩だけを認識しているので、何ら代わり映えのしない景色としてしか捉えられない。事実は一日一日が番号をふられるのではなく、それぞれに名前を冠するほどの記念的一日であり、記念的一日の舞台環境として異なる景色が用意されている。今日には今日の発見して感嘆する物事に満ち満ちている。ポイントは機械的なものを中心とした生活から如何に心情的なものを中心とした生活に重心を移していくかだ。今日の一日がただ平穏に流れるのを願うのではなく、たとえ起伏が激しい一日であっても、心情的に受け取るものがあり与えるものがある、そんな感情溢れる生活を願うことだ。

2011年9月24日土曜日

病を受けて考える

風邪を引いてから随分経つ。最初は身体が少しだるかっただけだが、一汗かくとそのだるさも抜けて元気になった気がした。しかし次の日になっても幾らか熱っぽく、身体が重く、頭痛も止まない。市販の風邪薬を三日続けて飲んでいるが、飲んで暫くは症状を抑えられるが、効果が切れるとやはり熱っぽく重く頭痛が止まない。動きは鈍るし、腰掛けると横になりたいし、重力に効し切れずに地に這い蹲りそうだ。食欲だけはあるから差ほど気にしている訳ではないが、やるべき事が思うようにはかどらず、そのツケがどんどん溜まっていく。病気から回復させる力をどう取り込むかと考えた時、元気になりたいという熱望だろうし、元気になるという意志だろう。熱望と意志が強いだけ回復力を取り込める。人間は肉体の健康な状態を知っているから病気になればわかるし、健康になろうとする。しかし人間は心魂に関しては健康な状態を知らないから、心魂が病に冒されていることを知らずに生きている。今の心魂をまともな状態だと思っている。救いが必要であるにもかかわらず、救いなど必要ないと思っている。心魂が病んでいるとは気付かないまでも、弱っているらしいと思える機会が与えられることがある。そのひとつが病に冒されるときだ。症状が重ければ重いほど、内面を掘り下げる度合いは大きくなる。風邪をひいたぐらいではそこまでに至ることはないだろうけれど、内的霊的観点から言えば心魂の病んだ堕落人間にとって疫病神は福之神だ。欲心を無にして疫病神に真摯に向き合えば、福之神に姿を変えて心魂の復活をもたらしてくれる。それは本然の、健全な心魂への憧れとして受け取るものだ。信仰者は常にこの憧れを内面に維持して、忘れてはならない。愛の人格者としてのイエス様の心魂への憧れ、真の愛の人格者としての御父様の心魂への憧れ、イエス様のようになりたい、御父様のようになりたいという内的霊的憧れを備えているだろうか。

2011年9月23日金曜日

感性を解放する

日が明けぬうちに外に出てみると、地上は靄に覆われている。街灯のオレンジ色を滲ませ、点滅する信号機の黄色を滲ませ、私も滲んで周囲に溶け出すようだ。靄で存在の明確な輪郭がぼかされると、個体液体気体の区別が曖昧な、地球生成の初期の状態に近くなる。勿論視覚的にのみ言えることであって、科学的知識に毒された感性では捉えることはできない。科学的知識を基とする現代人は、存在の背後から聞こえてくる霊的な声を聞き取ることはできない。私が靄の中に包まれていると言うことは、私は靄を呼吸しているとも言える。口で呼吸し、肌でも呼吸している。存在を呼吸すれば霊も呼吸している。大気の底で生温かい靄に心魂を委ねると、即ち霊で呼吸すると、地球生成の初期に関わった霊の存在が語りかけてくる。心魂の混沌状態から、思考を際立たせ、感情を際立たせ、意志を持つ魂としての人間創造に関わった人格の霊が語りかけてくる。まだ日が明けぬうちの靄に煙る景色は混沌状態だ。そこに光を割り込ませ熱を届けると、視界は徐々に晴れてくる。思考的な気体と、感情的な液体と、意志としての個体に明確に分けられていく。だから地上存在である被造物には思考も感情も意志も見てとれる。人格神の神様の思考が気体に流れ、感情が液体に流れ、意志が個体に込められている。私は或る存在の気体様相に波長を合わせるとその存在特有の思考を受け取り、液体様相に波長を合わせるとその感情を受け取り、個体様相に波長を合わせるとその意志を受け取る。霊的感性を得て、被造物に関わる霊達の叡智を受け取るためには、科学的な見方に限定され、押し込められた私の感性を解放しなければならない。

2011年9月20日火曜日

今日の想い 364

原理講義を受けて真理を悟ったかのように思えるけれど、それはただの気分でしかない。御父様に帰依して信仰に重心を置きながら生きているようだけれど、私の信仰が本物かどうかさえ分からない。結局、全てを分かったようなつもりで生きているけれど、何も分かってはいないと言うことだ。今日は辛うじて信仰を立てて生きてきたようだけれど、明日にはどうなるかさえ分からない。私の信仰を揺るがすほどの状況に会わなかっただけであるのに、今日には今日の信仰を立てたと誤解している。その私が他をとやかく評価したり批判したりできる立場ではない。溢れるほどのみ言葉を受けてきても、どれほど御父様御父様と呼びかけても、今までいたずらに時を過ごしたかのように、未だに揺れ動き、位置を定められず、さまよう自分がいる。あたかも御父母様の吐息圏内で同じ空気を吸い、同じ光を浴び、御父母様の愛を糧として存在しているようだけれど、それは幻想に過ぎないのではないかと疑ってみたことがあるだろうか。現実は堕落圏の底に息衝きながら、夢心地の幻想に揺らめいているだけなのではないだろうか。私の前には御父様が立っておられる。御父様を前にした私は、過去をひたすら呼び戻しながら、あれもしました、これもしましたと誇れるものを一つ残らず報告している。誇れる報告が尽きると固く蓋をして無視していた罪の部分を、言い訳がましく小出しに差出している。正直なところ私と言う存在はそれ以上でもそれ以下でもないだろう。信仰に重心を置いているけれども、信仰気分の内訳は自分の功罪に関わることが半分以上を占めている。もしそこに留まり続けるなら御父様を戴く意味は私にはない。旧約の神様で十分だ。私が正しく御父様にまみえるためには、まずその位置から去らなければならない。その立っている足場を崩さなければならない。崩しただけならさまようだけの私だけれども、新約の足場に辿り着き、更に成約の足場、そして第四アダム心情圏の足場を探さなければならない。氏族メシヤとしての氏族復帰が私達の課題ではあるけれど、私の内的霊的足場が旧態依然の足場であれば、私の代で私の果たすべきことを為すことはできない。過酷な現実が目の前にある。自分が救われるか救われないかが問題ではなくて、私を中心とした一族が救われるか救われないかが問題であり、私の一族が祖国に入籍できるかどうかが問題だ。自分の柱さえ立ってはいないのに、家庭を超えて氏族の柱を立てることを要求されている。自信も力もない、この小さな一つの魂に願われている。しかし何もない私を敢えて選ばれた神様がおられる。何もないからこそ、私は選ばれたと思うべきだろう。私に働きかけ、私を用いようとされる神様を絶対信仰する以外、この道は歩めない。今日も現実とみ旨の願いとのギャップに身も心も引き裂かれながら、それでも信じて前進すべき戦いがある。後ろを振り返らず周りを眺めず、ただ目の前にある戦いに全力を尽くす。

2011年9月19日月曜日

協助を考える

死の門を通過して霊界に入ると、地上での関係性がそのままフリーズしてキープされる。地上で解かれるなら霊界に於いても解かれるけれど、霊界に於いては関係性を修復しようとしてもできない。霊人と地上人との関係性は地上人次第で変化しうるけれども、霊人どうしでは関係性は変化しない。或る霊人と何らかの繋がりがあった地上人だけが、その霊人の苦しみを和らげることができるのであって、本人や他の霊人によって霊的状況を変化させることはできない。地上人から霊人へは、地上人の想いが架け橋となって霊人へ繋げられ、そうして働きかけがなされる。想いの架け橋を渡し、情を供えて送ることで霊人の苦しみを和らげ、救いへの門が開かれていく。霊人が私の前に立っているかのように感じながら思考することは、彼らと会話していることであり、思考して内面に於ける理解や納得が得られるなら、霊人もまた理解や納得が得られる。地上に於いては形を為さない内的理解や納得であるように思えても、霊人達に取っては霊界の現実として霊的生命の光や空気や水を得ている。み言葉の訓読が私とその場にいる者だけの学習だと思っているけれど、藁をも掴む想いの多くの霊人達がその場に参席していることを忘れてはならない。彼らにとってみ言葉は霊的生命の必然要素に他ならないし、私が窓口となり私の訓読や祈りを通して彼らは復活する。霊界と地上界は手のひらの裏表のようなものであるが、かつては分厚い境界が存在し、相通ずるには困難を要したが、今は日毎にその距離を縮めている。先祖解怨、先祖祝福を為して、後は協助を待つと言うのであれば、その価値を理解してはいない。霊的存在の彼らと共に訓読し,共に祈り、共に活動するには私はどうあるべきか、み旨を共有し共に復活するには私はどうあるべきか、主体である私が解かない限り彼らは一歩たりとも前には進めない。協助と他力本願を混同している。

2011年9月14日水曜日

十周年

あの9.11から既に10年が経った。その日、ツインタワーとペンタゴンの自爆テロ、それからペンシルバニアの飛行機墜落と、この三つ巴の状況を、ラジオもテレビも交替々々に延々と流し続けていた。ワシントン行政地域に広範囲に管制がひかれ、一度は中心地区に流れていった通勤の車の流れもUターンを余儀なくされて、朝のうちにも車は逆流するという、可笑しな現象が起こった。その流れが一段落した後は、店の前の大通りはクリスマスの日のように閑散としてしまった。こんな状況で店に食事に来る客などいないどころか、外を見渡しても人っ子一人歩いてはいなかった。隣の店の従業員がたまに外に出て様子を伺っているだけだ。これが世界が終わる日の幕開けであって、一瞬で戦時下となってしまったアメリカが、昨日までの明るいアメリカを取り戻すのに相当の期間を要するのだろうという、そんな暗い気分に一時でも誰もが沈んでいた。しかし人間は慣れる生き物だ。慣れて自分の生活に没頭する生き物だ。ランチこそ客は入らなかったが、ディナー帯にはそれなりに客が入ってきて、店は普段と何ら変わらない雰囲気を取り戻した。客の話題はおそらくそういったものだったろうけれど、店には明るいBGMも流れているし、楽しそうな会話だって聞こえていた。郊外と言っても、車で半時間も走ればテロが起こったペンタゴンの現場に着く。そんな目と鼻の先のことであっても自分の時間は好きに過ごす。これからアメリカも世界もどうなるかわからない。経済の破綻なのか地震などの物理的なものなのか、或いはそれに続く社会の混乱が起きるのか、何かはわからないが国を揺るがし世界を揺るがす何かが起ころうとしている。しかし何が起ころうとも人間は慣れてしまうのだろう。慣れて日常の生活感情に没っしてしまうのだろう。そう言えば御父様が収監された時もそうで、明日向かわれると言う時には食口の誰もが大きな衝撃だったけれど、それさえもひと月も経てば慣れてしまう。御父様は収監されておられるのに、指して特別な感情を抱き続ける訳でもなく、日常に埋もれたまま一年はあっという間に過ぎ去った。御父様に取って収監の一日一日がどれほど長いか、一年がどれほど長いかは考えもせずに、、、。私は何と勝手気儘な存在だろうかと思う。自分のことばかりに汲々としながら、精誠を供えるのはそのうちにと思いながら、無駄に貴重な時間を浪費し尽くして、来るべき重大な局面でやっと目覚めるのだろう。

2011年9月13日火曜日

秋夕

三日三晩続いたこの長雨は、秋の季節を司る霊によってもたらされたものだ。夏の季節を司る霊が早々に去っても夏の匂いが残り、しばらく夏の大気は動かずに腰を据えていたけれど、ハリケーンが広範囲に大気を掻き回すと、秋の霊はすかさず入り込んできて秋色に染める下ごしらえに余念がない。皆の顔が曇って嫌気がさし始めた頃に三日も続いた雨がやっと止むと、なるほど見事に大気は乾き雲は遠く高く退いて、地上の空間は大きく広げられている。透明度の高い大気を伝わり、太陽光は七色の光そのままを地表に届け、気の早い木々の葉は既に色付き始めている。今日も朝の六時過ぎには店に向かったけれども、一頃は明るくなっていたこの時間帯が未だに影絵のようだ。天と地の区別はつくが地上はまだ仄暗い。西の空に目をやると木立の向こうに月が浮いている。ひと際大きな円周をはっきりと描いて煌々と輝いている。満ちた月を目にして秋夕が近いことにやっと気が付いた。中秋の名月と言える月の光を受け取り、内面に届く言葉を私は期待している。太陽の言葉が届き、月の言葉が届き、星の言葉が届いているけれど、霊性が頼りなくてその場で受け取れずにいる私がいる。それでも受け取った印象を何度も何度も咀嚼していると、かすかな言葉が印象から響く時がある。それが明日かもしれないし、もっと遠い未来かも知れない。それでも印象としてはっきりと私の内面に納めていて、或るときその印象が言葉を発する。この月の印象も私の内面に届けて、丁寧に引き出しに納めている。太陽も月も星も、太古の史実や知恵を語ってくれる。特に秋夕の月は、その光の印象に先祖が送られてきて、先祖が届けて伝えたい多くの話が語られる。

2011年9月12日月曜日

エデンの園

善悪知るの木の実を何か口にするものだという理解が間違っていると言うように、エデンの園を地上の楽園のような場所としてのみ理解することも間違っている。善悪の実がエバの生殖器であると言うのは原理を知るものであれば理解しているけれど、では追放されたエデンの園とは何なのかと問うと、復帰された地上だとか罪のない地上天国だとかエデンの園を場所の概念として捉えている。そういう捉え方も間違っているとは言えないが、御父様はどう説明しておられるのかと言うと、エデンの園とは男性と女性の二人が一つになった愛の体がエデンの園であると説明しておられる。愛の体は愛の器官をもって一つになる。アダムとエバはこの器官を間違って使い、愛の器官は地に堕ち地獄の底に留まってしまった。この器官が正しく復帰されない限り、男性と女性は正しく会えず、正しく一つになることはできない。神様はこの器官の為に天地創造なされたのであり、この器官は愛の王宮、生命の王宮、血統の王宮、良心の王宮であって根本だ。それを誤って使ったことにより、神様の恨、人類の恨、万物の恨が生じて全てが嘆息のなかにあるようになってしまった。天使長もエバもアダムも、この器官を自分のものだと考えて堕落してしまったが、この器官の主人は自分ではなく神様だと言うことだ。私達は祝福家庭であれば堕落の痕跡は夫婦の間にないという気分で暮らしているけれど、どれほど仲睦ましくてもあくまで復帰の途上であって、神様公認のサタンの試練を通過しないかぎり自分は認めても天地は公認しない。どれほど地上で節操を守っているとしても、見えないし意識もしない霊的世界では淫らなあらゆることを行っている。現に死の門を潜って霊界に旅立つとき、欲界を通過しなければならない。地上で意識下において衝動欲求していたことが、現実に目の前に偽りのエデンの園として現れる。男性であれば美しい女性が現れて服を脱ぎ、その器官に触れてくる。見目麗しい裸の女性達が戯れる男性天国に迷い込む。その試練の場でその器官が誘いに応じて動じるなら通過して天国に行くことはできないだろう。御父様は家庭的楽園が生じざるを得ないと話されている。試験をパスできないので、霊界で夫婦の間で暮らすにも問題が大きいからだ。祝福家庭であれば、外的地上的には原理がわかっているのでそういう環境圏は遠ざけようとするが、内的霊的には衝動要求がそのまま現れる。それが霊界だ。淫らな思いをもって見るなら即アウトの世界だ。決められた一人の女性とだけ、外的には勿論、内的霊的にも一つになることで、私の天と私の地は一つになるだろう。一つになった愛の体であり、一つになった天地であり、その場に神様は臨在されて、神様と一つになり、神様と一緒に暮らすエデンの園となるだろう。

2011年9月10日土曜日

親馬鹿

親が子供と結びついており、子供の救いと幸福に絶対的な責任感情を持つように、御父様は子女である我々の救いと幸福に絶対的責任感情をもっておられる。必ず救い、必ず幸福にするという、絶対決意(絶対意志)を持っておられるから、私達は必然として救いに至る。期間はかかるとしても必ず救いに至る。それが人類の真の父母の意味でもある。私達が心配すべきことは、私が救いに預かるかどうかではなく、親として悲痛なまでの責任感情を少しでも減らして差し上げ、私のことは心配しないで下さいと言える心情を捧げることができるかどうかだ。どれほど子として救いたくても、本人が親として認めたくないと言って顔を背け救いを受け取らないなら、親の悲痛な心情は計り知れないものがあるだろう。真の父は子に取っての救いが何であり幸福が何であるかを、子以上に知っている。それを気付いて欲しいのに顔を背けられれば親としてどれだけ辛いか。それは親になってみて初めてわかる。どれだけ子供が顔を背けても、どれだけ子供が反抗しても、親の元に戻ってくることをひたすら信じ、ひたすら待ち続ける。親馬鹿とよく言うけれど、子供に対するどこまでも信じて待つ意志や、子供を救いたい絶対的な責任感情が親馬鹿なのだろう。馬鹿になってこそ絶対的と言えるのだろう。有り得ないことが実現する為には絶対的な、即ち馬鹿になることでこそ、それが可能なのかも知れない。絶対信仰、絶対愛、絶対服従の基準とひとつになると言う絶対を平易に理解するなら、思考を度外視し、感情を度外視しても信仰馬鹿に徹し、愛する馬鹿に徹し、服従する馬鹿に徹することなのだろう。

星の煌めき

夜空を鏤める星を目にしなくなって久しい。都会に住んでいれば節電対策で落としていると言っても、夜空一面の星を眺め渡せるほど電光を落とされてはいない。田舎であっても犯罪防止の為にそこかしこに街灯は灯っているし、普通休むまでは室内も煌々と電燈を点けている。電燈で照らされる明るさに視覚が慣れてしまっていて、電燈がない生活で落ち着く人は少ないだろう。しかしどれほど照度を明るくしても、明るくすればするほど内面に届ける私が照らそうとする光は弱められている。形状をどれほど照らし出しても、形状の背後の本質であるところの性相は益々見えにくくなる。祈祷するときに目を閉じて外界の印象を遮断し、意識を内面に向けるように、光が照らし出す外界の全ての存在、起こっている自然現象や社会現象など、本来それらの背後にある本質を、霊的存在の正体を照らし出して見えるものとならなければならない。星の煌めきは無数の霊的存在達の表れだ。星の煌めきを視覚に受け止めるだけでなく、星の動きから星達の会話や地上への語りかけさえも受け取れるものになる。古代に於いては大陸の消滅から始まり、現代に於いては火山活動や地震、気象の変化、全ては星の影響下にある。地上から夜空を仰ぎ、星の煌めきに感情を預けるのもいいが、地球を一点と見るなら、全方位に位置して活動している無数の星から影響を受けるのみならず、地球の存在自体に関わり地球環境圏のバランスを取っている。それは地球と運命を共にする植物や動物にも言えるし、勿論人間も形状、器官形成、生命活動のみならず心魂にもバランスを取らせ影響も与えている。御父様の勝利圏が人類に関することだけのものではなく、地球を存在たらしめ地球への影響を及ぼす星達の本質、天使と言えるに留まらない霊的存在であり、(こう言う言い方が認められるなら)神々でもある存在にさえ影響を与えるものであることを、神様と一心一体となられた今、言うことができる。私が御父様の息子娘であるなら、星の煌めきを受け取る時、天界の霊的存在達の御父様へのハレルヤの声を先ず受け取るはずだ。

2011年9月8日木曜日

本当の自分探しとは

死後の世界、霊界があるのか無いのかは死んで見ないと分からない。だから死んだ後のことを心配する意味はなく、どうせ死ぬのだから待っていればいいし死んだらわかる。そう言って今を楽しく生きようとする人はたくさんいる。自分は有神論でもなく無神論でもないと言う。霊界があるという立場でもないし、かと言って死後の世界などないという唯物論の立場でもない。そういう曖昧な立場で自分を納得させているけれども、その物言い自体が神を否定し、霊界を否定した立場であることすら本人は気付かないでいる。存在するかしないかという存在認識が既に唯物的なものであって、自分なりに想像した神をいるとかいないとか、自分なりに捉えている霊界をあるとかないとか言っているだけのことだ。そうであれば余計に死んで見ないと分からないと開き直るのかも知れないが、そのような考えは全く無意味であり、ただの言葉の遊びに過ぎない。納得する説明がないから信じないのではなく、五感で受け取れるものしか信じていない。五感だけに頼ることを唯物的と言う。唯物的な考えをし唯物的な生活をし、霊的なもの精神的なものを考えもし受け取りもしなかった者は、死後霊界に参入することも出来ずに、身体のない欲界の渇きに半永久的に苦しむことになる。食べたいのに口がなく、光を感じたいのに目がない、そして安らぎの旋律を聞きたいのに耳もない、、、。死後、肉体を取り去られるとはそう言うことだ。肉体を取り去られ、さらに魂である感受体を取り去られ、それでも残るものを携えて霊界への門を潜る。自分の内面を深く訪ねて問うてみればいい。この肉体を失い、魂を失い、それでも残るものを私は集めているだろうか。宗教的に言うなら天に宝を積んでいるのだろうかと言うことだ。自分探しという言葉が流行った。しかし本当の自分探しをしようと思うなら私が魂の存在であり霊の存在でもあることを無視できない。三次元を超えた世界、霊界があるかないかで足踏みしている時代はとっくに過ぎた。霊性を備えて内的霊的無知を克服し、五感で受け取るもの以上に霊的なものを実感して受け取れる時代圏に既に入っている。

2011年9月7日水曜日

困難を前にしたときに

私のなかに、何の感情も、何のみ言葉の働きかけも発動しない、貯め置かれて淀んだ腐れ水の状態がたまにある。そういう時は必ず何かが起こり、何かの形で上を下に、下を上に内面をかき回されて厭が上にも感情の嵐に翻弄される。アメリカ東海岸を北上したハリケーン・アイリーンのように、日本列島を時間をかけて横切って行った台風12号のように、淀んだ生命を、淀んだ心魂を暴風圏に巻き込んで混乱させる。だれも暴風圏に留まりたいとは思わないけれど、逃げずにしっかりと向き合うことが私自身の清めとなり、新生を促す蘇生の力が暴風圏に晒されることで芽生える。だから困難な度合いが大きければ大きいほど、謙虚と感謝の度合いもより大きくし、その位置で気持ちよいほどに打ちのめされればそれでいい。吐き切った肺に新鮮な空気が一気に入り込んで充満されるように、何もなくなった真空状態に思いもよらない蘇生力が満たされていく。ドラマの演出のやり方を見ていると、困難な状況にひとしきり翻弄されて、主役の内面に甘受し、整理し、立ち向かう姿勢が用意されていく過程ではよくBGMが流される。BGMが流されることで主役の内面の様子を描くだけでなく、内面に働きかけるものをも見る者に伝えようとしている。楽曲の響きが内面への働きを表すように、私が困難を甘受し、整理し、立ち向かう姿勢を用意する時には、霊的楽曲を紡いで天に届けている。私達は、まるで一大交響曲を紡いで天に差出す作業を、生涯を通して為しているようなものだ。地上の一つの楽曲は限定的で、流れるときだけ共感を与えて癒したり力付けたりするけれど、紡いだ霊的な響きや楽曲は永続的力を備えた共感であり霊界に偏在している。今では私達の精誠の天への響きが、どれほど神様を慰めることができ、神様の生きる糧となることか。御父母様が勝利されたことで、地で精誠を供えればその霊的響きは直接天に届く。だから普通の人間なら避けること逃げることに汲々としているけれど、御父様の息子娘を自負するならば、困難に対してよく訪ねて下さいましたと礼を言い、感謝を持って引き受ける。

2011年9月6日火曜日

無意識圏内に本質は隠れている

地上生に於いて私達は二つの異なる時間帯を交互に送っている。一つは起きて意識を保持している時間帯と、他の一つは寝て無意識にいる時間帯との二つだ。起きている間は私の霊や魂は身体の中にあり、寝ると身体から離れている。身体から離れている間、起きて体験した事柄を時間を遡りながらバック体験している。起きている間は身体を鏡として意識的に体験しているけれど、寝ている間は映し出す鏡を現代人は用意できていない。だから意識的な体験はしていないが無意識に体験している。無意識に体験しているけれど、確実に良心に見る内的霊的な法を宛がわせながら霊界へ届けているのであり、それは良心に鑑みた体験を霊人体に刻んでいるとも言える。人間は良心の基準をもって宇宙法を地上的に受け取っているのであり、良心基準で生きたかどうかが宇宙に、すなわち霊界に存在できるかどうかを決定される。良心基準に合わせて生きるとは、家庭に於いては家庭が私であり、自分以上に家庭を愛し、国に於いては国が私であり、自分や家庭のこと以上に国を愛し、世界に於いては世界が私であり、自分や家庭や国のこと以上に世界を愛する。それで孝子、忠臣、聖人という、それぞれの次元の良心基準に一致した人間の位階の言葉が出てくる。自分の身体を自分として愛し大切にするように、小さくは周囲の環境圏も自分そのものであり、大きくはこの大宇宙も自分そのものであり、自分として愛し大切にする。良心に沿うて生きれば生きるほど、私と言う境界域を超えてより広範囲に国や世界を私として生きるように、良心に沿うて生きれば生きるほど、宇宙法であり天法が統べる縦的世界、霊界のより高みに飛翔して、天国に届く私を霊的に生きる。現代人が意識できない睡眠期間の出来事は、霧がかかって謎であるけれど、もし人類の霊性の活動ボタンが押されて無意識の向こうを意識的に見届けられるなら、誰も霊界は否定しないだろう。

2011年9月5日月曜日

レーバーデイ

レーバーデイ、日本で言う勤労感謝の日だ。レーバーデイは9月の第一月曜日で、アメリカ人は夏を惜しむように、このロングウィークエンドで今年の夏最後の休暇を過す。この休みが終わるとバケーション気分を切り替えて、仕事モードや学業モードに入っていく。この休みに息子にどうするのかメッセージを送ったが、それには返答してこなかった。いつものように朝早く、店に行って仕事をしていると、妻から電話があった。息子が帰って来て寝てると言う。夜行バスで帰ってきて、私が朝出掛けるときにはもう着いていたらしい。私が店で一仕事終えて帰ってもまだ寝ていたが、遅い昼飯の呼びかけにやっと起き出してきて、サプライズだと言って笑顔を見せてくれた。勤め始めてまだ二ヶ月だし、忙しい時期で夜11時頃まで連日働いているのを知っていたので、相当疲れているだろうと思ったが、思いのほか結構元気そうだった。でもそれは親を心配させまいと振舞った事だったのかも知れない。いつも言葉だけは母を気遣い、父に遠慮した物言いをしていたからおそらくそうだろう。土曜の朝帰ってきて明くる日曜にはもう行くというので、家族四人で外食に出掛けた。私を除いてみんな少食なので残すだろうとは思ったが、それでもしっかり注文した。親として何もしてやれなかったことが負債となり、いつも穴埋めしようとしてこうなる。献身生活していた頃、数年を置いて一晩だけ顔を見せに田舎に帰ったことがある。たった一晩だけなのに親は町まで御馳走を買ってきて用意し、着る物がないだろうからと下着やらセーターやら買っておいて待っていた。話したい事も山ほどあったろうに、何も言わずテレビの音でぎこちなさを紛らわして、コタツを囲んで黙々と御馳走を食べた。家族で一緒に食べると、その時のことを思い出す。何とも言えない、明日には捨てるように出て行くしかない親への申し訳なさを思い出す。注文した料理も結局は残り、もったいないので自分の腹に詰めてしまう。心は満たされないのに体はこうしてまた太っていくらしい。DCのキャピトルの近くからバスが出るというので、夕方そこまで送っていった。出たときはまだ明るかったが直ぐにも暮れて暗くなる。日が暮れるのがめっきり早くなった。暗くなってから送り出すとどうも気が沈んで、高速バスの停留所までの半時間、一言二言のどうでもいい言葉しか掛けてやれなかった。停留所に着くと息子はシートベルトを外して勢いよくドアを開け、一言、じゃ、と言って小走りに乗客の群れの中に消えていってしまった。

霊という言葉を理解する (3)

外的地上的なものについては、私の所有かそうでないかは明らかなので、私の所有観念ははっきりしている。しかし内的霊的なものについては負債も含めて、私の所有観念には当てはまらないので、それを与えようとすることの意味がわからず、抱えたままでいてそれが執着だとは気付きもしない。赦しも、救いも、祝福も、それは内的霊的なものであるので、戴いて所有しながら霞と同じような扱いであって、所有しているという意識もなく、それを他と分かつことが与えることだという観念もない。もし御父様から祝福を返すように言われたとしても、何の事だか全くわからないだろう。霊界に行けば初めて、戴いた祝福の価値を明瞭に理解して腰を抜かすのだろうけれど、肉体を脱いでしまってからだと遅すぎる。心魂のステージに現れることは実感できても、その背後にある霊的な内容に対しては感性を持てないでいるからわからない。価値も分からず戴く実感もない者達に、尊い祝福を血肉を切り刻んでばら撒くように与えてこられた御父様だけれども、貰えるものなら何でも貰っておくべきだと、そんな乞食感覚で受け取ってしまう。戴いてはみたものの、価値が分からないからほったらかしのままで、相変わらず食べること生活することだけに意識を注いで生きている。尊い祝福の本来の価値を受け取ることが出来ずに、きっと祝福に預かったのだからそのうち好いことがあるだろう、ぐらいの感覚なら、欲しかったのは祝福ではなく打ち出の小槌だったと言うことになる。あまりにも食口を馬鹿にしたような言い方かも知れないが、御父様にすればどれほど悲しくも力の抜けることかと、せめてもの申し訳ない想いを馳せて、受け取れる内的霊的器を備えようと身悶えする私達であるべきだ。家庭基準の祝福の意味も価値も分からないまま、国家基準の祝福を戴き入籍手続きに入っている。器を備えた者と器を用意出来なかった者とに、食口であっても分かたれる時が来る。その意味で天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者達がそれを奪い取っている。地上的なことと比べ、霊的なことは逆説的であって、内的霊的所有観念は与えることを通して受け取る所有観念だ。

2011年9月4日日曜日

霊という言葉を理解する (2)

創造原理には、生霊体を完成した人間が地上天国を実現して生活したのち、肉身を脱いで霊人として行って生活する所が、すなわち天上天国である。それゆえに、地上天国が先に実現したのち、初めて天上天国も実現できるのである、とある。本来は、地上が完全に整備されて、地上における天国が実現してから霊界も整備され、天上天国が実現されると言うのが原理の教科書通りなのだろう。しかし祝福家庭が御父母様とひとつになることができず、先ず興進様が昇華された。そして霊界におられる興進様に祝福権限を移譲されて、霊界にいる先祖たちの祝福が始められた。十四代の祝福だったものが二十一代に増やされ、そして今は二百十代を遡る先祖を祝福するよう指示を出されている。本来は興進様が昇華される必要も無かったし、清平の摂理も必要なかった。しかし地上の摂理、特に祝福家庭を中心とする摂理が祝福家庭の度重なる失敗で、結果として今の摂理事情となっている。後が先になり先が後になる複雑な事情の中で、絶対服従の基準とひとつになって御父様にしがみついて行かなければ、思考にも感情気分にも、しがみ付く手を振り払おうとする見えない力が働いて、気付いた時にはみ旨の願いから遠ざかりベクトルが違う方向に向いていたりする。祝福を受けて幸せな家庭を築いたからと言って、その位置に留まったままで負債を覚えないかどうかは、各自の良心が一番よくわかっているだろう。御父様が真の家庭を犠牲にされて摂理を進めておられるように、私の家庭を犠牲にしてでも祖国創建を願い、アベルUNとカインUNの一体化を願って与えられたみ旨に邁進しなければならない。祝福を受けて祝福家庭を築けなかったら祝福は流れるように、国基準の祝福を受け入籍しながら祖国創建が果たせなかったら祝福は流れてしまう。祝福は次元を上げてこそ、展開されてこそ祝福であり、囲い込み個人執着的な祝福の捉え方はもはや祝福とは言えない。祝福の形骸にしがみ付いて満足していては本当の祝福の実は実らない。霊を見届けて捉えることを忘れ、一般の宗教で得られる心の平安で満足しようとする心魂のステージに自分を貶めている。統一教会が神霊協会であることを忘れようとしている。

霊という言葉を理解する

堕落人間は堕落人間であって人間ではない。自分を人間だと思って疑わないから人間の尊厳を自分に当て嵌めようとするけれども、人間の形を備え、人間らしき魂の活動をしていても霊を供えた人間に到達してはいない。私が言葉を喋る動物、服を着た動物から区別され、人間へと向かう為には魂が霊を捉え、人間としての霊を所有して完成する必要がある。善行を為したなら天国へ行け、悪行を為したら地獄に行くというような、そんな単純な話ではなく、霊を所有し完成しなければ本来の天上世界に辿り着くことすらできない。祝福を受けて死の門を潜ればそこに祝福先祖が待っていて、天国の入り口まで手を引いて案内してくれる。祝福を受けたという証明書を入り口で差し出して天国の中に入って行くと、御父母様がそこに居られて迎えて下さる。そんな、絵本にでも書かれたようなイメージをもって信仰生活を送っているのだろうか。ほっとけば腐って化学分解する肉体を生命存在にしているのは、私に生命体が備わっているからだ。死の門を潜れば先ず肉体を放った生命体が、一つ残らず刻まれ記憶された一生の経験体験を蘇らす。生命体は完璧な記憶体だ。一生を振り返え終えて生命体を脱ぐと、次に記憶のエキスだけを抱えた魂体が魂の世界、欲界に赴く。欲界で肉体のない渇き、地上感覚のない渇きを味わい、その執着に応じた浄化を為していく。浄化の期間には相当量の期間を必要とする。そして初めて霊界へ参入していくのだが、天国に近い霊界の高みに近付けば近付くほど、私の正体が何なのかを問われることになる。霊を備え霊の存在を明確にされなければ、尊厳の光を受けて喜ばしく思うより、霊にもならない霊を焼き尽くされる苦痛に耐えかねて留まることは出来ないだろう。堕落人間が天使長ルーシェルの末裔であるとは、人間としての、即ち神様の息子娘としての霊すら備えず、ルーシェルの低次霊、マムシの霊を核にして魂を活動させ、生命を繋いできたと言うこともできる。だからどんなに善行を積んで良心的生活を為しても、それでも人間の霊を備えられて天国に入れる訳ではない。では、祝福さえ受ければ天上天国に入れる霊を備えることができるのか。

2011年9月3日土曜日

精誠

汗は地のために、涙は人類のために、血は天のために、、、。私の内容にも外的な結果にも、実りと言えるものが見出せなくて、苦労してきたことが無駄だったのだろうかという思いと、苦労の貯め桶はいまだ溢れるに至らずその結果を見るにはさらなる苦労が必要だという思いと、二つの間を揺れ動きながら、隊列から遅れようとも辛うじて御父様について行く自分を絞り出している。果たすべき積み上げられた重責を前にすると、歯痒くも情けない自分の姿に打ちのめされ、立ちあがる力もなく地にへたり込みそうになる。へたり込んでしまえばますます隊列から遅れて行くだろう。汗は地のために、涙は人類のために、血は天のために。ただこの言葉だけを何度も何度も力なく心に繰り返しながら、また立ち上がろうとする。地の力が強すぎて私の霊は地に縛り付けられる。手も重く足も重く、体が重くて思考も感情も意志も金縛りにあったようだ。この重い体が恨めしくとも、それでもこの肉体を切り離すことはできない。この肉体をもって地上のみ旨を果たさなければならない。重い十字架を背負い、ゴルゴダの丘への道をイエス様が進まれるとき、イエス様の心中はどうだったのだろうか。重い足取りで、苦脳を表情に滲ませながら、希望の光の糸口だけでも見出しておられたのだろうか。重い体に占領された、私のみ旨に向かう魂は、どんなことがあってもこの呪縛から解放されなければならない。十字架を超えられて、霊的希望を見出されて、地上復活の摂理が展開されたように、この重い体を引きずってでもゴルゴダの丘に到達できれば、必ずや新たな視野が丘の上から望まれるだろう。イエス様がサタンに身体を引き渡すことで霊的救いを勝ち得たように、私の霊が諦めさえしなければ私を中心とする救いの摂理は奪われることはない。この手が千切れ、この足がもぎ取られても、救いの希望は未来に、次なる代に繋げられていく。汗は地のために、涙は人類のために、血は天のために、、、。み旨に向かう心が汗を流しているか。み旨に向かう心が涙を流しているか。さらにみ旨に向かう心が血を流さなければ私を地に縛り付けるサタンはその手を緩めることはない。引き摺りながら踏み出す、この僅か一歩の精誠であっても、全生命をかける。

2011年9月1日木曜日

今日の想い 363

サタン世界の歴史は怨恨の歴史であって、私が末尾にいる血統の因縁は流された恨みの血で血塗られている。血統という言葉を聞いて何の感情も覚えないなら霊性は閉ざされたままだ。ありとあらゆる恨みの感情が毒々しい血の色となって私に迫ってくる。この恨みを清算して洗い清めることがどれほど難しいだろうか。ましてや絡まり血塗られた怨恨の人類歴史、血統因縁の全ての歴史を解かなければならない御父様の心はどれほどだろうか。私達は無邪気に御父様、御父様と慕っているつもりでいるけれど、御父母様の前に孝行を立てようと思うなら、この清算を私が背負いますと覚悟しなければならない。積年の恨みがこの身体の血肉となっていることを見通せないなら、清算の意味もわかるはずがない。何もわからない者達を抱えながらも摂理に責任を持たれる御父様であり、だから孤独な御父様でもある。日本の警官に引きちぎられて死んでいった柳寛順を日本人と結婚させるほどの御父様だ。御父様が言われる怨讐を愛するという基準がどれほどのものかが伺える。いつまでも無邪気なままでは御父様の足手まといにしかならず、体が引き裂かれ、心が引き裂かれても御父様に従い、御父様が踏み締めてこられた愛の道を、犠牲の道を私も行くと決意しなければならない。死んでこそ生きる道が開けることを多くの食口はわかっているはずだ。御父様の路程がそうであるように、何度も何度も死の谷間に飛び込みながら次なる生きる道を切り開いていく。血塗られたこの血統はこの私が処断し私が清算する。その意味での氏族メシヤであって私が逃げているうちは血統的救いはない。

今日の想い 362

教会の食口たちが印象として捉えられている彼らは純粋だという表現は、それを当て嵌めて納得すべきではないと思う。周りからもそう思われ、食口たち本人ですらそう思っているふしがあるが、今の世の中で人に対して使う、貴方は純粋だという表現には、きわめて相手を不憫に思う見方が伺える。信じやすく近視眼的で、騙されやすく思慮に欠ける、そんな印象で私達は見られている。見られている以上そう見せている部分があることを私達は認めなければならない。教会に反対する人達が口にする同じ言い種は、彼らは騙されていると言うものだが、騙されているように見られる自分がいると言うことだ。御父様や真の家庭に対する中傷や非難を、一方的に相手側だけの問題だと捉えているけれど、少なくとも半分以上は我々に非があるはずだ。私達は先ず、目を覚まさなければならない。やれと言われたからやる、であるなら永遠に私を中心としたみ旨は為せないし、周りから見てやらされ感は見え見えだ。やれと言われたことを自分の意志としてやりたいという、自分の想いから発するまでに昇華しなければ、それは騙されていると思われる範疇から抜け出すことはできないだろう。み旨としての全ての歩みに、一生の間やらされ感という深い霧に覆われ抜け出せないまま霊界に行くことになる。その場が本当に天国だと言えるだろうか。不憫に思われてきたことは仕方ないにしても、私達が自分を不憫な存在と信じ不憫な存在に落とし込めるべきではない。御父様はわざわざ不憫な者達を集めてみ旨を為そうとしておられるのではない。私達は目覚めて脱皮すべきだ。不憫でもなく、可哀想でもなく、弱者でもない。合わせて下手に温厚で優しく、人格者の振りを装う必要もない。み言葉は家庭を重要視しているけれど、私たちの思い描いている平和な家庭が理想家庭でもない。個人に於いてそうであるように、家庭の中にもありとあらゆる堕落的なものが入り込んでいる。不純物にまみれた汚物が家庭の底に沈殿しているのを、波風立てないように掻き回さないように当たり障りない距離を取って暮らすなら、それは偽善者ならず偽善家庭に他ならない。偽善夫婦より、髪を引っ張り合ってでもお互いに交わり合おうとする夫婦の方がまだ前進の余地は有る。私の中の偽善を偽善と見破る私を備えてこそ、み言葉によって芽を出した本当の私が活動する。