2011年10月8日土曜日

今日の想い 366

私達が愛という言葉を想起したり口にするとき、世俗化され使いまわされた愛へのイメージが邪魔をして、イエス様が口にされる愛というイメージや御父様が口にされる真の愛としての愛のイメージへと到達できずに、愛ではないものまでも愛と呼んで受け入れてはいないだろうか。聖書も今でこそ愛と訳されてはいるが、キリシタン時代には愛と訳された箇所は御大切と訳されていた。愛という響きに欲に絡むものや感覚的なものへの衝動も受け取る多くの日本人にとっては、御大切という言葉の響きのほうがよりイエス様の愛に近いと思う。み言葉のなかに真の愛と言う言葉はそこかしこに出てくるが、真の愛という言葉は偽りの愛を踏まえて表象されたものだろうし、私の中で偽りの愛と真の愛をはっきり分別しなければならない。偽りの愛は自己を中心としたものであり、真の愛は自己を犠牲とし他の為に生きる愛だ。私達は御父様から内的霊的に多くの恵みを戴いてきた。私達はその恵みを真の愛で愛する力、為に生きる力に変えなければならない。しかし恵みを戴いて私に留めるなら、私は正しく為に生きる力として恵みを受け取ってはいないし、結果私はその恵みを実感することはないだろう。愛すれば愛するほど、為に生きれば為に生きるほど、より愛さなければならないより為に生きなければならないと言う、愛の負い目を覚える。愛の負い目が深ければ深いほど、そのマイナスに対してプラスである本人の受け取る愛も、愛する力もますます増加する。祝福を戴いたのはより為に生きる為であり、より為に生きてこそ祝福はその無限の価値を発揮する。残した結果を眺めて満足するのではなく、私の中の為に生きる力の増大するのを覚えて喜びとする者となる。

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