2011年10月4日火曜日

訓読会

死の門を潜った霊人達は本を読むことができない。人間が地上で本を手に取って読むと霊人達もその本を読み始める。人間は本を読むことで人間の思考内容を紡ぎ出す。その思考内容を霊人達は読むことができるのであって、直接本を手に取ることはできない。よく録音された御経を繰り返し流している家や場所があったりするけれども、先ずその場に人間がいることが前提であり、更にその人間が聴く耳をもっているかどうか、それを聴いて思考内容や感情内容として私の中に紡ぎ出されるものがあるかどうかが大切であり、御経やみ言葉を流したままでその場が清められるとは思わない方がいい。地上では田畑に穀物や野菜が実り、人間はそれを食べて物質的に生きている。霊界では霊的生命の為の霊的穀物や野菜は人間の思考内容、感情内容が田畑になっている。人間が起きて外的事柄に意識の殆どを費やしている場合は霊的田畑は用意されないが、意識を内面に向けるときや眠って無意識の状態にあるとき、霊人達は人間と言う霊的田畑に近寄ってきて人間が紡ぎ出した思考内容や感情内容を霊的糧として収穫する。しかし霊的田畑が用意されるのはその人間の理念によるのであり、その人間が霊魂の存在を否定して唯物思想に完全に帰依するなら、霊的田畑が用意されることはない。地上の日々の体験や経験を内的霊的にどう捉え、どう内面の光とし養分とするかで霊的田畑に実りとして実っていく。現代人の多くは外的事柄、物資的な遣り取りに終始して生活しているので、霊人達が霊的田畑に実る収穫は殆ど見出せないで落胆している。私達が行う訓読会がどれほど霊人達にとって重要なものであるか、その認識が深ければ訓読会のその場は参加している者のみならず、霊人達にとって渇きを癒す霊的オアシスであり、霊的血となり霊的肉となる収穫を得る場となっていく。霊界籍になった親族や知人、感化を受けた歴史上の人物へ想いを向け、その存在を意識的に対峙させて訓読すれば、その霊人も訓読する内容を注意深く追っている。

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