2011年10月27日木曜日

不信

今までの自分の信仰観を裏切られるような事態に直面した時、信じていたものが音を立てて崩れる時、それをそのまま放っておいて、彷徨いながら何か別の信仰という島を探して取り付くことができるのだろうか。見たくもない汚ないものを見せられたからと言って、清いもの聖なるものとして捉えていた概念に当て嵌まらないと言って、では自分はそう言ってのけることができるほど、清く正しくも住み良い霊界を背負っているのだろうか。人は大きな石には躓かないが小さな石には躓くと言う。しかしこれは大きな石、それも躓くどころか前を遮る岩だと言う。これは大きな岩でこの岩を取り除かなければ前に進めないと思うのかも知れないが、実はこの岩の上に自分が立っているということを見落としている。抱えた罪は軽く、自分は十分に空を飛べるから必要ないと言うなら、わざわざこの岩を存在基盤に置いてきたのは何だったのか。たとえ生命を預けたとしても救いに与りたいと思ったからではないのか。それともたまたま羽を休めるために見出した宿り木がその岩の上にあっただけで、もともと罪の自覚もなく救いの必要性も無かったのか。純粋で全てを信じる兄弟とは言ってもやはり現代人であり、時代の流れで培ってきた悟性が働き、それぞれの善悪判断、道徳的判断を供えている。その悟性が如何なる場合でも判断ツールとして働くと思っているから足を払われる。自分の悟性による判断を地上での事柄に充てるなら、正しく悟性を働かせていると言えるかも知れないが、私の望んでいる救いが心魂の救いのみならず霊の救いを問題にするときに、悟性の光それだけでは正しく作用はしない。メシヤ初臨のときに、弟子達がどのように不信に落ちて行ったかを、深い感性を総動員して訪ねてみる必要がある。聖書に記された話を追っただけでは見届けることができない、弟子達の目にどのようにイエス様が写って行ったのか、イエス様のどんな行動に彼らの悟性が引っ掛かって行ったのかを想像をフル稼働して検証してみる必要がある。彼らの悟性とは当時の律法に沿った慣習であり道徳だ。イエス様は当時の慣習や道徳の囲いを外して行動していた為に、勿論律法学者達はその噂故にハナから信じてはいなかったが、特に信頼を置いていたユダが心情的に離れていった経緯、或いはその他の弟子達のイエス様に対する心の揺れ、などを追っていけば、当時の悟性と現代の悟性の差はあったとしても、弟子達と同じ種類の内的経緯や心の揺れを今の統一食口の内面にも見ることができるだろう。その意味でも歴史は繰り返される。当時の弟子達の非を軽々しく指摘できない、ましてや非難などできようもない私たちだ。使徒達の霊を呼び出し懇願してでも、この再臨のときに同じ過ちを繰り返さぬよう協助を願い出るべきだ。

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