2011年10月22日土曜日

今日の想い 367

耳に心地よいことばかりを報告するなら、確かに耳は喜ぶのかも知れない。御父様の一部でもある御父様の耳だけ喜ばせれば御父様を喜ばしたことになる、そう思っている。報告には正確さを要求されるのでなければ報告の意味がないと思うのだが、中心への恐れから報告は耳に心地よいように粉飾される。そのように祈祷報告に於いても私を偽り粉飾することで私の霊界は偽りの幻想で膨らまされていく。御父様の公的路程は大会のひとつひとつを経て超えられながら布石を打ち続けてこられた路程だ。布石を打ち続けるその先に見ておられる目標地点がある。御父様には見えていても、無知な者にとってはその目標地点は見通せない。それどころかこの大会の次の布石をどこに打たれようとされておられるのかさえ見通せない。会場も満たすことだけを至上命令として受け取りながら、その都度回せる兄弟を目一杯動員しながら、そうやってひとつひとつの大会を乗り越えて行ったと思っている。御父様が捉える大会の内的霊的意味を、本当の意味で分かっている者が何人いるだろうか。私のように訳も分からず、付いて行くのが精一杯の兄弟も多いはずだ。周囲の環境を整え、整地して土台を築き、柱のひとつひとつまでも立てられ垂木も組み入れられて、そうして一戸の家が立つように、過去の数え切れない大会の内的霊的勝利基台は、御父様の中では創造理想の天宙という家を築く土台であり柱であると捉える事ができる。そのブループリントを見通せる目も力量もない者が手となり足となるなら、御父様の願いからずれた認識として多くの間違いを侵して来たかも知れない。大会のその都度、良かった良かった勝利したと喜ぶけれど、次の布石を見通す配慮もなくてその大会で完結したかのように喜ぶだけなら、その先を見通せずに大会を重ねる毎に疲れてくるのは当然だろう。大会や宣布式として布石を打たれる毎に、私の中の内的霊的に培われ築かれるものを確認すべきだった。今その気付きを得たのなら、過去の大会や宣布式のみ言葉を読み返しながら、私の内面にどう布石が打たれているのかを見通し、御父様との距離を縮めて行くべきだ。祝福家庭だとおだてられ、背負われてでも同じ摂理の景色を見させて戴いた時代は過ぎ去った。今は払い落とし、突き落としてでも付いてくるのかを試されている。大会や修練会、そして宣布式。その内的な関係性を私に見出そうとすることで、同じ勝利圏に参与させて戴き、疲れることなく次なる布石に精誠を供えることができる。傍観者ではない今の摂理と共にある兄弟姉妹は、意識無意識に関わらず内面の布石を捉えようとして必死でしがみ付いているはずだ。最後のラストスパートとして、地上天国実現へのマイルストーンを、御父様と共に打ち立てている。耳に心地よい報告でその場を凌いだとしても、布石を打てない私の内面は誤魔化せない。

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