2011年10月23日日曜日

兄弟の人間性への配慮を考える

人間性を否定され、人間的な扱いを受けなかった。拉致被害を被りその声を外部に向けているけれども、厳しい摂理の要求に応える過程でそうなってしまった内部に向けるのとでは、それは同じように扱われるべきだろうか。外部に向けて発することでは摂理の要求に応えようとする意志が見えるけれども、内部に向けられるものからはそれが見えない。内部へ向けて指をさすのは摂理を後ずさりさせているようだ。私がその声を発するのであれば内部しかないのだが、内部に対してそれを叫んで気持ちよく納得する良心を、私は持っていない。声を発すのであればその時その場であるべきだったと思うし、私の場合そのとき声を発しなかったのは信仰ではなく恐れからだ。何があっても離れまいとしたのは信仰だけれども、言うべきことに声を発しなかったのは恐れからだ。全体行動の中でひとりひとりの人間性への配慮は欠けるだろうし、それでも付いてこれる力を当時の摂理では要求されていた。自己否定という意味の本質を理解するために敢えて人間性も否定され、誤解されて受け取られていたけれどもその過程で自己否定の本質を受け取ることができた。私も、見限った兄弟達のように心の表面では様々な恨みが残っているけれども、心魂の奥の部分では感謝している。と言うのは苦痛であれ悲しみであれ、人間性も否定されながら味わった心魂の土壌に真の愛が芽生えているのを感じるからだ。日本のアベルカインは間違っていると当時指摘されたけれども、間違ったアベルカインを宛がわれ悶々とする中でアベルカインの本質を受け取ることができた。私が受け取ったみ言葉は、牛のようにその都度その都度反芻(はんすう)されながら、み言葉の本質に限りなく近いものとして受け取ろうとしている。今あるみ言葉への理解が完全だと思うべきではないし、ましてや不完全な理解で御父様や教会を量るべきではない。人生に於いては理解しがたいことばかりの連続であると言うならば、み旨の道では尚更だろう。過去がそうであったようにこれからもそうだ。御父様の意図を全て汲み取って歩むことなど不可能に近いが、しかしそうする努力は必要であって、受けた心魂の傷ばかりに意識を奪われ今の判断基準と御父様から離れた位置で、自分の安息圏が訪れるとはとても思えない。

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