2011年10月20日木曜日

主の日は盗人のように襲って来る

しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。(ペテロ第二、3:10)
普通に考えれば矛盾している。盗人のようにそっと襲って来るのに、その日の情景描写はあまりにも派手すぎる。足を忍ばせて来た意味がないだろうと言うことだ。しかし聖書全般に言えるように、言葉の表面的輪郭のみを見て、その言葉の背後の本質に触れることがないなら、聖書に触れたと言うことにはならない。信じて意志する者のみが、輪郭だけを追う者には隠されているみ言葉の本質を受け取ることができる。内的霊的な変化や変革といったものは、この聖句が語っているように盗人のように襲って来る。それは置かれている環境や関わり合っている存在も含めて、それらは私の対象圏にあるにも関わらず、変えることができない環境圏があって私があると捉え、対象圏を主体に置いているからだ。対象圏に対する主体は他の誰でもないこの私だ。先ずここをはっきりさせなければ私は正しく対象圏に対することはできない。環境が変わるのを待ち、関わる人が変わるのを待っている限り、私の中の変化や変革に気付くことは先ずない。敢えて簡単に言うなら、サタンがいてサタンが支配する環境圏が用意されて私がいるのではなく、神様が私に働き真理に浸透された私が環境圏を変えていく。前者は堕落した位置の私であり、後者は復帰する位置の私だ。この内面に於ける主体性を取り戻そうと意志したとき、私は目覚めた存在としてみ言葉の本質を受け取る器を用意している。そして内的霊的にみ言葉は働きかけ、内的霊的な変化や変革を見逃すことはない。

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