2011年10月26日水曜日
秋空
パステルブルーに薄雲の乳白色を広げた空は、陽の光を柔らかく地上に反射させ、乾いて何処までも透き通った大気に秋の光は踊っている。暫く曇り空が続き、秋の色付きもくすんでいて、どこか今年の秋は気落ちして物悲しく思えたけれど、秋の陽を受けると途端にその表情を変え、季節の花々に負けない鮮やかさをどの木々も装っている。この木々に負けない美しさを差出そうとしても、私の精神は未だ純化されずに鈍い光を醸し出すに過ぎない。このように、日頃は何食わぬ顔で恥ずかしげもなく胸を張って生きているけれど、堕落して万物にも劣った人間だと思わされる瞬間がたまにある。自然に対して感嘆の声を漏らすと同時に、自分に対しては低次の精神を改めて確認させられる。畏敬の気分に覆われてくると、日頃は空気のようで感じられない愛の姿が見えてくる。光の中に愛が見え、大気の中に愛が香る。あらゆる被造物の中に愛が生き生きと捉えられる。多様な様相の様々な愛が地上を満たし、宇宙を満たしている。愛が満ちるその中に佇む私は恥ずかしくて消え入りそうだ。誇らしく愛の存在でありたいのに、私が偽りの存在であることは疑いようがないからだ。人は愛を語りながら、しかし愛を知らずにいる。受けたことのない愛は、授ける行為だけは見届けられるけれど愛の実質は受け取れない。御父様が犠牲に次ぐ犠牲を払われながら愛してこられたけれども、愛の何かを知らない者はその実質を受け取れずにいる。イエス様が、「主よ、彼らをお許しください。彼らは何も知らないのです。」と神様に取り為されたように、御父様は私達に対してもそのようにされておられる。愛を受け取れずにいる私達に問題があるのに、あれも差し出せこれも差し出せと、さも取り上げて当然のように御父様に対している。御父様の犠牲の上に胡坐をかきながら、それなのに御父様を批難するのであれば、犠牲の上に成り立つ私と言う存在に気付いた時に負債の炎で身を包まざるを得ないだろう。乾いて透き通ったこの秋の大気のように、兄弟達の中にある不信の思いが取り払われて、御父様の愛の実質が受け取れるように。
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