2011年10月24日月曜日

秋の情景

秋が深まってくると浮かび上がってくる情景がたくさんある。後から後から浮かんでは上重ねされていく。しかし、どの情景も遠い子供の頃の情景だ。遠い過去の情景から最近の情景まで追っていくと、季節感とは一切関わりのない期間がある。献身してから日本を飛び出すまでの二十年間の歩みだ。この間の記憶に季節感と言えるような情緒的なものは見当たらない。せめて言うなら暑い寒いくらいのものだろう。その頃私がどれだけ余裕のない歩みをして来たかが伺える。秋の刈入れの田舎道を、重い弾(たま)を両手に提げて歩いたはずだ。高く鰯雲がたなびく秋の空の下を、帯同しながら家々を訪ね歩いたはずだ。しかし私の中に秋の匂いに包まれた当時の記憶は見当たらない。涙で祈祷する姉妹の姿は覚えているし、厳しく追及するキャプテンの憎々しい顔は覚えているけれども、母性溢れるそれぞれの季節の、自然の懐に抱かれた記憶がない。今、目の前の深まっていく秋の景色に心を委ねると、ここがふるさとから離れたアメリカの地であることなど忘れてしまい、遠い昔からの長く深く暗い眠りからやっと醒めたように、子供の頃の情景をそのまま目の前に見ているようだ。人生の折り返しを迎えると言うけれど、確かに折り返して、来た道と同じ情景を逆に遡って見ているのかもしれない。昔どこかで見た光景と、その時の気分がそのまま目の前に再現されているのだろうか。そんな人生の不思議を考えながらも、この秋も次第に深まっていく。今年は長雨が続いて早々と散ってしまい、去年程の色付きを全体には見れないけれども、それでも雨風に耐え抜いて残った葉の色合いは、より深く、より鮮やかだ。濡れ落ちていった葉の分までもという想いがその深い色合いに込められているのかも知れない。

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