2011年10月17日月曜日
幸せを考える
幸せですかと問われて幸せですと答えられるだろうか。それだけではなく、更に幸せになりたいと目を輝かす私となっているだろうか。不平不満を抱かない兄弟はそれはそれで賛美に値するけれども、裏を返せば欲がない、更なる高みへの追及欲がないとも言える。人間は愛の減少感を感じて当然、いや感じるべきであって、だからこそ不平不満を覚えもする。最初から不平不満を抱かないことが褒められることではなく、不平不満を消化して、より高みに向かう推進力に変えてこそ褒められるべきだ。何の不平不満もなく今がとても幸せだという気分に包まれることで、私の人生は良好で神様に感謝もしていると思っているけれど、それは体の良い個人主義だと思わされることはないだろうか。欲が否定されるのはその欲が低次元に留まっているからであって、低次に向かう欲を高次に向かわせるべきで、欲を抑え込んで否定して終わるなら、その信仰は私が高みに羽ばたく精神の存在ではなく石になることを願っていると言うことだ。俗に言うところの幸せは、家庭の平安であり健康であり、満足な生活でありと言うようなイメージがあるが、それは表面的なものであって輪郭に過ぎない。輪郭に惑わされて幻想を追い求めていると、幸せの内容はもぬけの空だったと思い知るときがくる。み言葉だ御父様だと、真理を知り正しく御父様に出会うことも出来たと思っているけれど、我知らず都合よくみ言葉や御父様を利用しているだけなのかも知れない。私が思うところの幸せありきで、その私に合わせて納得させているだけで、正しく対象の位置でひとつになろうとはしていないのかも知れない。或る意味、御父様の要求はすさまじい。小さな幸せを抱く位置で満足したいのに、更なる犠牲を要求される。その意味は更なる欲を、天宙を欲するほどの高次の欲を持てということでもある。私が思う幸せの概念は打ち砕かれ、この家庭を犠牲にしても氏族を救い、国を立て、世界をも欲する、その過程や行動の中に幸せという概念は見出すものなのかも知れない。
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