2011年10月18日火曜日

選ばれた群れとして

神様に選ばれた私だという感覚を、統一の食口であるなら誰でも持っているだろう。それは或る面から言えば正しく作用し、また異なる面から言えば自分の認識に誤解を生みかねない。み言葉の理解は中途半端で、御父様への想いは未だ熱いとは言えなかったまでも、それでもこの困難な道のりを歩んできた群れに貫かれていたことは、撰ばれし群れであり私だという誇りであり使命感だ。組織という城を堅固に聳え立たせ、カリスマ的中心を頭に戴き、組織の細胞として動じ静することだけに没頭する為に、誇りと使命は重んぜられた。それが間違っていたとは言えない。しかし少なからず置いていかなければならなくなった身に着けるべきことを、今遺恨として重く抱えている。それは外的な事柄だけではなく、それ以上に私達の内的な意識下に刻んでしまった霊の傷跡の方が深刻だ。内部の衝突や、敢えて外部に出て行った位置で攻撃する兄弟や、それは私の内面の投影であるとも言え、食口誰しもが多かれ少なかれ意識無意識に抱えている恨みでもある。選ばれた私だと信じて全てを捧げてきたけれども、それに見合うものを受け取っていない、それどころが捨てられ忘れ去られているという恨みだ。御父様はワシントンタイムズを取り戻されたとき、共産主義の手から奪取したという言い方をされた。共産主義はその思想の根底に、神は死んだという、信仰を捧げた見返りを受け取れずに逆に奪われてしまったという恨みがある。要するに恨みがこの事態を引き起こしたということだ。私達は内的柱として頼ってきた選ばれたという意識を、次元を上げた意識に変えなければならない。愛の減少感から恨みを抱くのではなく、愛の減少感をより高みに羽ばたく推進力としなければならない。み言葉の真意を受け取ろうとしてこそ見えてくるものがある。ある面兄弟が燃えていた時代、み言葉がわからなくても誇りと使命感で走れた。しかしそこに留まることが御父様の願いではない。より高みに羽ばたくためにも、今こそみ言葉の深みを掘り下げていかなければならない。深みを掘り下げて、新たな内的柱を用意しなければならない。

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