2011年10月31日月曜日

OX哲学

神様は公的な神様だというのは異論はないだろう。では御父様は公的なお方だというのはどうだろう。御父様にも私的な面があるはずだから、全てに於いて公的なお方だと言えるのかどうか。事業の責任を持っていれば常に公的私的という判断を要求される。事業体を存続させる為には、従業員が何が公的なものであり何が私的なものなのかの理解をはっきりさせる必要がある。責任者の中に公的私的の概念が明瞭でないかぎり、従業員の公私の判断は曖昧なものとなる。それが物に関する限りは解りやすいのだが、時間に関してとなると曖昧さは増してくる。就労時間の間、会社にいれば公的に過したと言えるのか、肉体を動かして労働しなければ公的に過したとは言えないのか、意識が別のところに飛んでいて心ここにあらずでも体が動いていれば公的なのか、目に見えない領域で従業員の公私をはっきりさせることが責任者に問われることになる。責任者自身の公私についても同じで、マネージメントを任せられた責任者であれば公私の判断を自分にもしっかり充てがう必要がある。だがここでオーナーという問題がある。オーナーは彼の事業である限り事業存続に於ける公私の判断は必要なく、私の事業であって公的な事業ではないと言えるのかどうか。責任者や従業員に対して有無を言わさず自由勝手に処分できるのかどうか。それは多分にオーナー自身の公私に対する概念によるだろうし、その概念は企業哲学によるし、哲学は宗教性や道徳倫理性による。私達が公的私的ということを問題にする場合、神様のものなのか自分のものなのかという二極概念でそれを判断しがちだけれど、こと自分自身に関することだけならそれで事足りるのかも知れないが、自分を超えたところで判断を要求される場合、例えば親として子供に対する、或いは教会長として信者に対する、仕事の責任者として部下に対する判断を要求される場合、二極概念では曖昧すぎる。話されたみ言葉の中にこう言うのがある。--神様は公的な方である。しかし私的なことも考え得るが公的なことを考えた、その基盤内で私的なことを考えられる。公的な考えの圏内で自分をも考えるのが神様だ。-- これは二極概念の公的でなければ私的、私的でなければ公的というのとは異なっている。公的な中に私的なものが含まれると言っておられる。私的な中に公的なものがあるのではなく、あくまで公的なものが先ずあって私的なものが含まれると言うことだ。Oの中にXは幾らでも入るが、Xの中にOは入らないという、OX哲学がここにある。ここをはっきりさせると公的私的の概念が見えてくる。私と言う存在全ては公的であるべきで、その公的意識の圏内でこそ私的意識も芽生えるのであって、先ず私的意識ありきからは自分という存在は有り得ない。御父様の所有問題に対する非難も、曖昧な公私概念に悪神が付け入る隙を見せたから起こったのだと言うこともできる。

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