2011年10月25日火曜日

霊の認識をもたなければ何も解決しない

疑問が生じるなら祈ればいい。祈って私の中におられる神様に尋ねてみればいい。しかし本当の祈りを捧げたことがないし知らずにいる。祈りの境地を体験したこともないのに、今の拙い自分のものさしを宛がおうとし、結局それでは応じきれずにいろんな問題に翻弄される。翻弄される間はどこまでも翻弄される。自分が壊れるまで翻弄される。しかし壊れるまでの過程の何処かで本心が働き始めるはずだ。一方で翻弄されながらも実は甘えが私の中のどこかにある。甘えがあって、それが翻弄される自分をそのままにしている。自分の中に、自分は壊れるという危機意識がもたげてきて始めて、甘えを断念し、本心を稼動させ始める。危機感を覚えて人は本当の祈りへと入っていく。その境地でしか神様に会うことはできない。甘えが居座っている間は神様とサタンの間を揺れ動き、心は定まることはない。いろんな立場を取る兄弟がいる。み言葉を聞いても祝福を受けても、ありとあらゆる立場の兄弟がいるのに、原理非原理と線を引いて天国と地獄を分けることなどできないことは誰にでも分かる。自分なりの基準を設けて、外的なことに関する問題や、起こる事柄をああだこうだと言っている間は、甘えがあるし翻弄されるのを許している。私と言う霊界を意識し、私の終末を実感している者は、そんな余裕はさらさらない。しがみ付くようにみ言葉に求め、起きていようが寝ていようが私の中に中に下っていって、すがりつくように神様に尋ねざるを得ないだろう。御父様に帰依せざるを得ないだろう。御父様に距離を置いても安心しておられるのは、未だ自分の霊界に下ったことがないからだ。心魂の世界は実感できる感性を備えているけれど、霊界を知らないし心魂の世界を霊界だと思い込んでいる。原理は科学的論理的に解明されているけれど、その認識は霊的で心情的なものとならなければ、神様の認識も霊界の認識も唯物的な概念、即ち幻想から離れることはない。

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