2011年10月30日日曜日

摂理について

偶然の連続のように流れてきた歴史も、摂理史観を通してみれば、そこには明らかに神様の意志が見て取れる。神様の意志と合わせてサタンの意志も神様に対抗する形で見出される。それは同時性に見る歴史の大きな流れにも言えるが、特にこの再臨時代である近代は、摂理史観によって御父様が詳細に説明される内容に対して疑問を挟む余地はない。御父様を批判する者にとって、その説明が、起こった事の後付けであることから、どのようにでも解釈の仕様があるだろうと懐疑しているが、宇宙を支配する別の原理原則を持ち出すなり発見するなりして、新たな史観によってしっかりと説明できてこそ批判も的を得たものとなるだろうが、批判だけで終始するのであれば口煩くケチをつけているだけだと思わざるを得ない。私という存在は、人類歴史の結果とも言えるし摂理の所産とも言える。私の知情意の活動にみる魂様相は、歴史の結果存在として自分に見ることができるが、摂理の所産としての私という言い方には、私の魂様相を紡ぎだしている原因的私、或いは霊的私に光を当てることで表されるところの私の表現の意味合いが含まれているようだ。摂理に貢献する私であり摂理の願いに応える私として、結果存在ではなく原因存在、創造存在として光を当てられている。天によって用意された摂理上の中心人物や聖人は、結果存在としてではなく、明らかに原因存在、創造存在としての位置で地上に送られた。普通の人間は特定の聖人に帰依することで、結果存在だけの生を原因存在的生に変えていると言うことが出来る。異なるその生の違いは天地の差であって、宗教の地上人間への関与は一般の宗教に対する人間の概念を遥かに超えている。ましてや摂理の中心の中心に位置しておられる御父様とひとつになると言うことは、御父様と共に天宙の創造活動を為していると言っても決して過言ではない。講論の後編をよく学び、近代の摂理史や御父様が語っておられる御父母様の路程を詳細に研究すれば、兄弟にどうして御父様に対する疑いが生じるのか、私は不思議でならない。

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