2011年10月9日日曜日

万物主管を考える

今日も目の前にこの肉体生命を維持する食物がある。それは自然の恵みとして被造万物から私に与えられたもの、それは万物の愛として私に流れてきたものだ。目の前には食物の他にお金がある。お金それ自体は食物ではないのでそのまま口にすることはできない。しかしお金は食物に交換できる。衣服や住まいの快適さにも交換できる。お金は人間の社会的生命を維持するために消費される。お金は社会の恵みとして私に与えられたもの、社会の愛として私に流れてきたものだ。しかし食物もお金も、肉体生命や社会的生命の外的な関わりだけに留められるなら、愛として流れてきたものに報いてはいない。食物やお金が声を発するのを聞いたことがあるだろうか。断食して食物のありがたさを痛切に感じて戴く断食明けの食物は声を発する。商売でもしてお金に対する苦労をとことん味わうと、お金が声を発するのを聞く。その声を聞けないうちは、私は食物やお金に対して外的な関わりだけに留めている。万物を心魂領域に関わらせ、さらに霊的なものに昇華させてこそ、万物は報われる。そのために私は万物にどう関わっていったらいいのかを問い続けなければならないし、学び続けなければならない。万物主管とは万物を外的なものから霊的な高みに届けることをいうのだと私は思っている。ことお金に関して言えば、いろんな人間の手を経ていろんな使われ方をして私の手元に届いている。受け取ると同時に明らかに恨みなどの堕落的な心魂要素にも関わろうとしている。このお金を開放するも貶めるも心魂存在である私にかかっている。発展させて用いる霊的感性を、知りもしない遥か彼方の次元に役立てようとするのではなく、手にして関わるものの本質を見届ける為に使われないなら、霊的存在である私が肉体を戴いて地上生活する意味は半減する。御父様から直接にお小遣いを戴いた兄弟であれば知っていることだけれど、御父様はピン札しか持っておられない。勿論、直接に金銭を受け取られることもない。愛は与えても情はかけないと言う、お父様の話された何かのみ言葉にあったのを覚えているけれど、流れて訪ねてきたお金にも御父様の立場で情をかければ霊的に複雑なことになるのだろう。お金には堕落人間に関わるのと同じ恐ろしさがある。食物をテーブルいっぱいに並べて好きなだけ食べなさいと言われれば食べるとしても、お金をテーブルの上に盛って好きなだけ取りなさいと言われて取る訳にはいかない。

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