2011年10月17日月曜日

夫婦として輝く

店から帰ってアパートの部屋のドアを開けるとき、ワンクッション置くのが習慣になった。部屋に入れば店の書類の箱が山積みされていて、その奥のソファーに毛布に包まった妻が転寝(うたたね)している。私がこのドアを開ければ彼女は条件反射のように体を起こし、帰ってきた私に声をかける。病に臥すことなど想像も出来なかった状態から、あるとき急に体調の悪化を訴え日毎に悪化して体が壊れていく妻の様子を見せられてしまうと、日常を普通に送れる彼女がドアの向こうにいるという、ただそれだけのことが嬉しい。嬉しいけれどもその感情の中に、神様から念を押されることがある。ドアを開けてもそこに彼女を見ない情景を、あるとき必然として迎えなければならないことを、、。だからドアを開けて彼女を確認できたとき、今日もまたそこにいてくれたことに安堵して感謝し、しみじみと嬉しさが込み上げてくる。何事にも動ぜず、辛酸を嘗め尽くした観のある彼女の魂と、いつもびくびくしながら、初めて地上を体験するかのような私の魂。その違いの印象は、年齢差からくるものとは関係のない、お互いの背後の違いにある。もし彼女が背負わなければならないものを私が背負うとするならば、私は一瞬で音を上げてしまうだろう。どれだけ痛みが押し寄せてこようと引き受けて耐えて音を上げることもなければ、しかしその魂が神様に委ねて救いを求めることもない。妻が私を必要とする理由を、そして私が妻を必要とする理由を、今日まで関わり合って来て私は魂の領域で理解している。御父様によるめぐり合わせの妙味は、時を重ねれば重ねるほど味わい深いものがある。夫婦の感情を、その表面的なことだけに関わって紡(つむ)ごうとするなら好きだ嫌いだに終始するけれども、心魂の深みに関わって紡ぎだそうとする感情は家庭を大きく包み、社会や世界までも包み得るものとなる。連れ合いの下の世話をすることになっても、ボケが始まって表面的には関係性を変えることになっても、紡がれた夫婦の深い感情はその環境を越えて余りある。どちらかが先に骨を拾い拾われるその時でも、悲しさ寂しさを超えて余りある二人の感情の一体圏は永遠だ。

0 件のコメント: