2011年10月11日火曜日

自由と平等

自由主義であり民主主義のひとつの弊害は、自由の意味の履き違えであり平等の履き違えだ。自由には責任が伴い責任のない自由はない。平等には義務が伴い義務のない平等はない。責任を取りたくないのならそれ相応の自由は放棄すべきであり、義務を回避するのならそれ相応の階級に下げられるべきだ。私達は自由と平等を当然のように社会に求めるけれど、負わねばならない責任と義務を考慮して求めるのではなく甘い部分だけを求めているのであって、その弊害は個人本人にも及び社会にも及んでいる。その利己主義的な自由意識、平等意識が、私達の内部にも侵入していることを無視すべきではないだろう。利己主義的な自由意識、平等意識と私達のあるべき絶対信仰、絶対愛、絶対服従とは相容れない。慣れ親しんでいる過去の自由平等概念を砕かなかったら、御父様と共にあって同じ道を進むことはできないだろう。再臨主だと言いながら、真の父母だと言いながら、進む角度を変えて違う世界を標榜しているかも知れない。我知らずみ言葉の解釈を都合よく変え、み言葉に一貫性がないことを指摘し、さらには自分が高い見渡せる位置にでも立ったかのように批判し始める。批判する自分こそを検証し悔い改めるべきなのに、自分を棚に上げ、自分の内面を照らす光を用意すべきなのに専ら批判の光を対象に向けている。外的社会は先んじて自由と平等の為の枠組みだけは用意されてはいるけれど、未だに抜け殻の自由と平等に占められている。内的主体であるべき我々に於いても、履き違えた偽りの自由と平等がいつのまにか闊歩し、責任を引き受け義務を全うする意志さえも陰っている。私達の自由と言えるものは信仰の自由、即ち神様を求め真の父母を求める自由だけであり、それぞれの心情の段階は異なるのであって御父様までの位階は厳然として存在するし、兄弟姉妹横一列で平等だとは言えない。ましてや自分の心情段階も把握できずに真の家庭をどうこう言い、誰それ構わず好きな事を言うのであれば、真の父母を口にするかつて存在しない別の悪魔が誕生したと言うことになる。

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