2011年10月22日土曜日
仏教とキリスト教
仏陀が菩提樹の下で開いた悟りは仏教語で涅槃の境地と言い、生(存在)への執着を完全に捨てきったとき安らかなその境地に入ることができると言うものだ。人間という存在は、生きる上で悩み老いることで悩み、病に悩み死の訪れに悩む。現世の地獄に降りる為にわざわざ受肉したのは、欲世界である地上生への渇望、執着がその根本原因であると説く。要するに仏陀は地上に受肉した人間は既に我欲存在であり、我欲存在でなければ地上への受肉を果たしてはいないと捉えており、生への執着を完全に捨てれば地上に受肉する必要もないし、したいとも思わない。地上が欲を満たす世界であって地上人間が我欲存在であることは変えようもない事実だという足場から出発している仏教に対して、キリスト教の足場は人間が欲の存在であることはそうだとしても、人間本来の欲は清く尊いものであり、しかし悪が入り込むことで自己中心の欲に変貌したと言うスタンスで出発している。一概に言うと非難されるが、基本的に、仏教が悪から逃げる受動的な教えに対して、キリスト教は悪に戦いを挑む能動的な教えに立っている。立ち位置の問題であって、どちらが正しくどちらが間違っているとは言えない。仏教の立場だと輪廻(再受肉)は自ずと認められるけれど、キリスト教の能動的立場から輪廻を大っぴらに肯定することはできない。逆にキリスト教は救世主の必要性を自ずと認め再臨主の到来を待っているけれど、仏教にはその存在を待ち焦がれる意志は見出しにくい。仏教が地上人間はもともと我欲の存在であるのに対して、キリスト教は地上人間が堕落したことで罪の存在になったと説く。仏教は人間を超えた存在になることを願い、キリスト教は人間の中にある罪を清められ人間本来の存在になることを願う。統一の信仰に於いても、受動的な意識に留まるなら仏教霊界により近く、能動的な意識に変わるならキリスト教霊界により近くなる。繰り返すけれど、どちらが正しいだとか間違っているだとかではなく、受動的な意識も能動的な意識も必要とされる。しかし敢えて言うなら、日本食口は受動的な意識、受動的な信仰に傾きやすい。静の愛だけが愛ではなく、動の愛が必要とされる。
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