2012年4月12日木曜日

春の風

自然と足に力がはいるほどの強い風が、一吹きしては去り、また一吹きしては去って行く。いつもなら気に留めるほどの風ではないが、駐車場から店の裏口までのこの短い距離ですら、風が当たる度に足を止めてしまう。ここのところ暫く続いている股関節の痛みがどうも気になっている。生活に支障を来たすほどの痛みではないし、そのうち引くだろうと高を括っていたのだが、どうも引く気配が無い。痛む場所を庇ってどうしても軽く左足を引き摺る格好になってしまう。そして、この心地よい春の暖かい風にさえ立ち止まる状況に、つい溜息が出てしまった。自分の足がここまで弱ることなど思ってもみなかった。昔から足は丈夫で自信があった。四年前から続けている敬拝の条件も、このままずっと続けていけると思っていた。しかし今はストップがかかっている。条件の無い私が唯一条件と言えるものとして続けていた。当然のように与えられ護られていたものが、失われ不自由になって初めてその有り難さがわかる。歳をとると言うことはひとつひとつ失っていくと言うことだ。失う毎に寂しさを味わいながら、その感情を起こすことでひとつひとつの身体機能への弔いを霊界に送っている。寂しさ有り難さを送ることで、失った身体機能に代わる霊的機能を受け取る手続きをしている。視覚機能に代わる霊視機能だろうか。聴覚機能に代わる霊聴機能だろうか。失うことに執着心をもって恨みを送るのではなく、仕えてくれた感謝の念を強く強く送り、有難い想いが強ければ強いほど霊界での機能はしっかりしたものになる。病を患い健康への有難さが身に染みている者は、霊界ではその想い故に健康体でいられる。春の風が無邪気に私に戯れているのに、どうしてそれを咎めることができるだろうか。刺激される痛みに少し表情が歪むとしても、それでも体を包む風は温かい。