2012年4月12日木曜日

今日の想い 394

もっと非難轟々となって心の底の醜さを抉り出すような仕方で責められるのかと思ったが、随分みんなスマートだ。アベルカインを持ち出されてえげつない仕打ちを受けてきただろうに。スマートさを保つことで自分は誰かとは違うということだろうか。年数を経れば経るほどに稲穂のように頭を垂れるべきだと誰もが思っている。しかし現実は異なる。清く美しい心魂にダイレクトに向かっていくと思いきや、長ければ長いほど、トラウマになるほど責め立てられた歪みは更に酷くなってきたようだ。しかし醜かろうが汚かろうが全ては自分の内面に沈殿していたものが表出したのであり、通過すべきは通過しないと立ち込める霊の雲の上に抜け出すことは出来ない。昔、先輩がしみじみと、富士山は遠くから見るから美しい、と呟いた。なるほど、とえらく納得したものだ。正直、最前線に立ち続ける期間は短く済まし、できればツバキ圏内から退避して、落ちず離れずの位置まで退いて様子を伺っていたいと思った。信仰は要領と功労だと言い放って開き直った時期もあった。高校生で復帰されて何も知らずにこの世界に飛び込んだので、罪を経験もせずに罪を学んだことは間違っているとも思った。己の馬鹿さ加減に消えてなくなりたいが、それでも霊界の恐ろしさは実感していたので、そのカードで恐喝されながら何とか離れずにここまで来た。自分の意志でここまで来たのかと問われると、成り行きでこうなったと言える部分もある。そのように、反意を呈する人も成り行きでそうなったと言える部分もあるだろう。私に関する限り、信仰があったから内側にいるだとは口が裂けても言えない。しかしそれでも、御父様の元に帰って来るべきだと進言したい。踏ん付けられても蹴られたとしても、それでも真の霊の親だ。彷徨った果てに、どうしても戻りたいと思える故郷があるように、どんな止まり木を見出したとしても所詮濁流に飲まれる流木であって、本当に帰る場所がどこなのかは自分の内面に聞けば一番良くわかるはずだ。祈りぬくこともなくそれを怠って周りを引き摺りこむのは自分を余計に惨めにする。理屈を言えと言うけれど、理屈を尽くして探せるものではないし認めもしないだろう。遡上に載せて切り刻みたいなら好きなだけやって頂ければいい。私を踏み台にして次のステップが踏める人がいるなら、それで十分ありがたい。私に明確なメシヤ観が備わっているとは思っていない。しかし方向は間違っていないという確信がある。それが信仰であって明確なメシヤ観が備われば信仰は必要ない。