2012年4月22日日曜日

愛について

愛にはいろんな形があるだろう。手を差し出す愛もあるだろうし、見守る愛もある。更に背を向ける愛だってあるはずだ。通り一遍の愛の形を想像して、想像した愛の形に合わなければ、そこには愛はないと決め付ける。優しさだけが愛でもなければ、心地よさだけが愛でもない。厳しさのなかにも愛はあり、痛みの中にも愛はある。愛に酔うという表現を御父様はよく使われるけれども、12対象の愛が千変万化していけば、いろんな愛を味わい、いろんな愛に酔うだろう。傍目にはどれだけ不幸に見えるとしても、この苦味やこの酸っぱさは、味わったものしかわからない。特別な愛の味だ。甘いものだけを選り好みして他の愛の味を味わうことがないのなら、それは涙の必要のない存在だろう。涙が流れるときは愛を味わっている。甘い愛では涙は流れない。愛にはいろんな味があるように、いろんな色合いもある。いろんな愛を味わいながら、いろんな色彩のなかに生きている。狭いアパートの一室で、何の色合いも無いこの部屋で、別に連れ合いである必要はないけれど、どんな有形無形な対象であれ相対するものがあるのなら、遣り取りしながら味わうものがあり、広がる色彩がある。孤独からは何の愛も生じない。世界を切り離し、他を切り離し、自分のことだけに関わろうとすれば、そこに愛は生じない。何の味気もなく何の色合いもない。そこに背を向ける存在でもあれば孤独よりはいいだろう。意識して存在を認めてくれたからこそ背を向けたわけだ。誰もが本当の愛に飢えている。人間は偽りの愛でここまで歴史を繋いできたが、歴史の結実体としては本当の愛でしか満たされないことに気付いている。御父様の愛は甘いとは言えないだろう。優しくも心地よくもないかも知れない。背を向けられたと思えるかも知れない。しかしそれは偽りの愛と比べるからだ。満たされることのない偽りの愛と比べても仕様がない。確かに御父様は背を向けられる。視線を逸らされる。しかしそれは私の真の愛の湧き水を誘い出そうとされる、御父様一流の子女への愛だ。