2012年4月20日金曜日

今日の想い 395

日本語には日本の民族霊が関与しており、日本語を話すと日本の民族霊が働きかける。英語を話せば英語圏の民族霊が働きかけ、韓国語を話すようになると韓民族の民族霊が生きて働きかける。日本人が世界に出るとき、現地の言語を学びながらその地特有の文化が浸透して心魂が馴染んでくる訳だが、日本人は他の民族圏の人が世界に出て馴染むのとは異なる仕方をしている。私は日本を出て初めて、日本人というアイデンティティーがぼやけていて、日本人としての自分の輪郭がはっきりしていないのを知った。それは人に対するときに出てくる。表面的なことを言えば、どんな人種でも自分を合わせることができる良い面もあるが悪い影響も簡単に受けやすい。しかし表面的なものを剥ぐと曖昧さに安住する自分がいて、種の特質がはっきり表れる者に対する恐れや反発心から距離を置こうとする。年数を或る程度経ると後者の悪い面が顔を出してくる。問題は性質の在り方がどうなるかと言う表面的なことより、本人自身の内面への影響だ。アメリカは自由の国だ。しかし自由への認識は実に重く、言葉は自由という言葉を使いながらも日本的言葉に直すなら自己責任と言った方が当たっている。確かに自由の風は吹いていて、アメリカ英語を使うようになれば開放感は感じるけれども、それと釣り合う見えない責任が確実に存在している。自由を勝ち取る為に多くの血が流されてきたその重さだ。しかし自由の風だけを受けて浮かれてしまい、流された血への責任を認識できずにいると、内面は腐り始める。この地域にも韓国人はたくさんいるけれども、その民族性を日本人の目線から言うなら主体性が強いと言う事だろう。アイデンティティーとしての輪郭がはっきりしている。しかし彼らの歴史的背景や血に流れているものを見なければその特質を正しく捉えることができず、自分を押し通すという悪い面が強調されて認識されがちだ。その表面的性質のみを受け取って白衣民族として沈清、春香、李舜臣の血が流れていることを無視したままでは、内面は何処までも硬化してもろくなる。日本人妻として嫁いだ姉妹たちも、血に流れるものを受け取ろうとしている影で、表面的性質だけの影響を受けて内面硬化している者がいないかどうか心配だが、良くも悪くも日本人としての曖昧さを知る為には、先ず日本から出てみるべきだろう。特に心魂の座っていない浮遊魂は出エジプトすべきだ。