2012年4月6日金曜日

知の側面から

救いや解放が観念的で漠然としたままでは救いも解放も私とは関係がない。神様も霊界も漠然としたままでは堕落的な地上存在のままであり、永遠に生きる何の基盤も環境圏も地上で作ることはできない。私達は霊的無知であることを先ずはっきり知るべきだ。無知の知を受け入れた者が本質的一歩を踏み出せるのであり、自分の霊的無知を棚に上げておいて、救いや解放と何の関係もない圏外にはじき出されたまま、如何なる主張も主義も虚しいだけだ。御父様の願われる人類一家族理想は決してヒューマニズム的なものではない。神様を迎えた人類一家族、地球村であり、神様を事実迎える為には人類の霊的無知が克服されなければならないのであり、漠然とした神様でありながらも「神様の下の」と言い表すことに何の意味もなく、相変わらずヒューマニズム的な理想にすぎない。原理で学んだ神様も霊界も自分は知っており言葉で説明もできるし認識もしている、と言う。しかしどれ程言葉を尽くしても地上的知と霊的知の間にある底なしの溝は埋まらない。霊的無知は知らないことさえも知らないという無知であり、私が理解した原理への認識も、足がかりとしての取り敢えずの認識であって、御父様の中にある霊的知として燦然と輝く原理とは異なる。しかし何も知らない私達を子としてかき抱かれる御父様であり、霊的無知を霊的知がかき抱くことで知に至る道がある。唯一私達が取るべき態度は、無知の知の自覚をもって、抱かれる御父様を全面的に素直に受け入れることだ。それが絶対信仰だ。私の中にあるあらゆる地上的知がしがらみとなり邪魔となって、サタンに抱かれている部分がありその決別は決して容易いものではないけれど、サタンに抱かれている部分さえも抱かれる御父様だとわかった時、固い結び目が次第に解けてくる。漆黒の夜に夜明けが音もなく訪れるように、霊的無知に知の光がさしてくる。

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