2012年4月5日木曜日

今日の想い 389

近い未来に予測し得ることを思い描き、自分の身の振り方をその思い描いた未来に合わせて決めていく。それ以外の選択は盲目的だと思っているのだろう。近い未来に起こり得ること。御父様のX-Day、お墨付きを失った教会の指示、既に孕んでいる不和の表面化、食口達の彷徨い、とこのように見えるらしい。確かに御父様のX-Dayがあることは、霊界に行かれる日があることを御自身の言葉で何度も伝えておられるのでその通りだ。しかし御身体を消されて私達が五感で受け取ることはなくなっても、存在し続けられることは間違いない。御父様のいない地上世界が、御父様の指示もなく影響もない世界になると踏んでいるようだけれど、それはないだろう。しかし指示や及ぼされる影響がどんな形になるかを今問うことは、生きて歩んでおられる御父様への侮辱だ。私達は地上的な自分の将来を予測し、そこに重心を置いて歩むようには御父様は願われないし、そう訓練されてもいない。自分や自分の家庭の将来だけを見図ろうとすることに自己中心的在り様を見るし、先ず、公的全体的なことが優先されるべきは徹底して訓練されてきたはずだ。彼らの言い分には自己中心的な意志が巧妙に隠されている。X-Day後を見込み、混乱するであろう状態にあっても自分なりの理想を失わないぞという自分基点の信仰を形成して、今の信仰認識の将来的な安定基盤を用意している。信仰に安逸を求めると信仰は形骸化してしまう。信仰という蓑(みの)をまとった自己の安住の設定だ。その為には担ぎあげる神輿の存在がどうしても必要であり、必要だから担ぎあげたのであり、神輿の存在の御為を思って担ぎあげた訳ではない。人格を高く認めるとしても神輿として担ぎ上げれば、その陰に隠れて自分の本当の正体が見えなくなる。御父様という天宙的歴史的太陽のもとでは、自分の正体は影もなくあからさまに照らされるけれども、誰かを担ぎあげることは自分の中に照らされたくないものがあると言う話になってくる。私が言葉を尽くすことに、言葉で武装する彼らに取っては攻撃としか受け取らないだろうが、御父様の胸に釘を打ちつけておいてどんな理想論も虚しく聞こえる。

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